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『電磁戦隊メガレンジャー』評価〜終盤の展開は結局のところ悲劇でも何でもなく、ただのリスクヘッジの弱さが招いた自業自得である〜

「何を書くか?」ではなく「何を書かないか?」を最近のモットーとして生きている私ではあるが、「ファイブマン」の小林良平の件といいまだまだ私が書かねばならないことはあるらしい。
まあ今回もその「書かねばならないこと」「書く必要のあること」を書くわけだが、『電磁戦隊メガレンジャー』の終盤の展開について、改めて配信での見直しと共に評価をこの度下方修正することとなった。
なぜかというと、視聴者目線で感情の面で主体的に見ると「世間から迫害されてるメガレンジャー可哀想」「ドクターヒネラーの執念が凄い」といったドラマ面の高評価は一切しない
そんなものはリアルタイム放送時から散々語られてきたことであろうし、私自身は特別な「メガ」のファンでもないので、「メガレンジャーとなら一緒に死ねます!他の戦隊見なくてもいいです!」レベルの人には今回の話はきついものとなるだろう。

やはり根幹の部分における考え方=脳のOSの書き換えを完了してステージが少しずつ上がっていくと見えてくる世界も違ってきて、最近は特に管理者側・経営側の視点も交えつつ作品を俯瞰している。

半年ほど前に再配信がスタートした時、私はこの作品に対して覚えた奇妙な違和感を言語化したわけだが、先日書いたメガシルバー/早川裕作の事後報告スタイルと併せて、終盤まで見てみると奇妙なまでに辻褄の合う物語となっているのだ。

なるほど、意識を上に合わせるようになってから、いまいち言語化できそうではっきりしなかった「メガ」の構造的な致命的欠陥が見えた気がする。
これは終盤の見え方がまた今までと違って見えてきそうで、とても楽しみだ。

最後にこのように書いたわけだが、「メガ」終盤の鬱々とした展開に対する違和感に私がさほどの同情も共感もせず一切心が動かされなかったのはやはり根幹の部分でI.N.E.T.の管理体制の杜撰さが問題となっていたからだ
48話でメガレンジャー5人の正体が敵側であるネジレジアに知れ渡ってしまい、続く49話ではあっさりと身元が特定され一気にメガレンジャーは弱点である「一般人」を容赦無く突かれて高校生としての根城を失ってしまう。
それどころか健太に至っては「メガレンジャーになんてならなきゃ良かったんだ!」とデジタイザーを地面に放り投げてすらいる、あれだけの強敵を相手に散々立ち回って勝ってきたメガレッドが、である。
そういう複雑な内情などは当然世間一般の知るところではないから、「お前らのせいで俺たちが襲われるんだ!」と迫害されるわけだが、この展開はよくよく考えてみればおかしい

確かに健太たち5人の高校生はメガレンジャーとして戦いはしたものの、じゃあそんなことを世間が望んだかというとそうでもないし、また健太たちも最初から前向きだったわけではないだろう。
それに、ネジレジアを倒したところで給料が発生するわけではないのだから、「世間の人たちはヒーローを褒め称えるべきだ」という見返りが結局は5人の中にあったということではないだろうか。
まあこれに関しては未成熟な現役高校生だからという理由で多少は許せるのだが、問題はここまで5人の私生活を失わせておいて、その原因を作り出しておいた元凶のI.N.E.T.が何の対策も講じなかったことだ
5話や19話、36話がその典型だが、I.N.E.T.は上層部のレイヤーと久保田博士ら下層部のレイヤーとで認識や方法が大きく異なっていたし、またその埋め合わせを積極的にした形跡もない。

しかも1話からして仮初の基地をいきなり爆破されている上、終盤では月面基地すらあっけなく破壊されてしまうのだから、東映特撮お得意の「ザル警備」によってこうなってしまったのである。
作品としてのクオリティーはまあ及第点と言えるので枝葉はそれなりなのだが、その枝葉を飾りつけるための根幹の設定・世界観といった基礎的な部分をきちんと詰められていない
正体厳守にしたって2話で5人が敵の見ている目の前で変身したはずなのになぜだか終盤までバレない設定になっているなど、これはもう企画段階で詰めきれず、生煮えもいいところの見切り発車であった。
そしてそれは16話から参戦してサブとして鮮烈なデビューを果たした小林靖子という天才脚本家一人が加わったところで変わるものではなく、根本的な解決になっていない

「後半にかけて面白くなった=化けた」と言われる「メガレンジャー」だが、それは錯覚であって根幹の設定をきちんと詰めきれないまま主軸をあやふやにして進めたことに変わりはないのだ。
その設定の詰めの甘さをある意味メタ的に構造化して地金を晒す形で悲劇的展開へと持っていくというそのアイデア自体は非凡な発想ではあるものの、同時にそれはI.N.E.T.の体たらくをも露呈させている
前衛で戦ってる5人の戦士に大きな非はないしむしろ頑張った方だと思うが、問題は彼らをきちんと組織が大人として守れず、セキュリティ対策が甘かったからこうなったのであって、これは悲劇でも何でもなく自業自得だろう。
まあとはいえ『五星戦隊ダイレンジャー』終盤の導師ほどの救いようのなさではないし、リスクヘッジが弱いながらも久保田博士とメガシルバー/早川裕作は何とか責務を果たそうとしていたのだからそこは功績として認める。

私がなぜ全盛期の髙寺成紀が作った作品の中で本作だけイマイチ乗り切れないのかというと、結局のところは「準備がきちんとできない状態で戦うからこうなった」に集約される。
かつて先人は言った、「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」と……有名な孫子の「兵法」からの引用だが、要するに「戦いは準備の段階で勝つか負けるかが決まっている」ということだ。
戦争になった時にトップの人間が最初にすべきことは「戦うか戦わないかの判断」であって、できることなら後者を選択する方が望ましい、戦いを選択するとどちらかの戦力が尽きるまで血を流し続けることになる。
そしてこと「メガレンジャー」に関していうなら、1話の展開の時点で終盤でリスクヘッジの弱さという致命的欠陥を突かれてこうなるであろうという伏線は既に貼られていたのであって当然の帰結だ。

だが、それは決してメガレンジャー側だけが悲惨だったのではなく、敵側のネジレジアも捨て身の戦法を取ることをも意味し、だからもう最後はどうしてもヒーローとしての綺麗事を超えた答えの出ない問いに向き合うことになる。
だからメガイエローの「悪いとか、いいとかじゃない。それであなたは幸せなの?娘さんまで犠牲にして、幸せなの?」に対するヒネラーの「ならば聞こう。おまえたちは幸せか!」に繋がるのだ。
ドラマとしての主観で見ればこのようになることに何の異論もないが、突き放して客観的に見ると結局は単なる価値観の押し付け合いになってしまっていて、理路整然とした理屈で論破したわけではない
それもそうだ、最終的に高校生5人も鮫島も己を取り囲むものを全て失ってしまうのだから、追い詰められると最後はもう主観しか残らなくなるのは当然だ。

メガレンジャーの5人は最終的にメガスーツが剥がれて高校生としての制服姿になるわけだが、これも結局は「ヒーロー」としてではなく「人間」として鮫島にぶつかっているという演出だろう。
この手法自体は『地球戦隊ファイブマン』『鳥人戦隊ジェットマン』が作り出したロボ戦の演出であり、00年代以降もいくつかの戦隊(代表は『侍戦隊シンケンジャー』など)が用いている。
展開としてはなかなかに凄いと思うのだが、事の発端が「敵味方共にセキュリティ対策が甘くリスクヘッジが出来ていなかったから」という自業自得なところが残念というか、イマイチ箔がつかない
まあこの作品は言うなれば『鳥人戦隊ジェットマン』という大傑作の前座たる『地球戦隊ファイブマン』と似た立ち位置で『星獣戦隊ギンガマン』という大傑作の前座みたいなところだから、これでもいいのだが。

逆にいえば、この作品がこれだけ根幹の設定を詰めきれずにスタートしてこういう展開だったからこそ、戦隊として、またヒーローとして「何をやってはいけないか?」が見えたのではなかろうか。
「何をやってはいけないか?」を知ることで逆説的に「何をやればいいか?」が見えてくるわけで、本作で色々と得た教訓をスタッフは無駄にせずに次作できちっと反省点は全て改善している。
評価はやはりどこまで行こうとD(凡作)100点満点中50点、今までずっと引っかかっていたモヤモヤが全て今回の再視聴と私自身の考え方が変わったことできちんと言語化できた。

とりあえず、本作のことは「ギンガマン」へ踏み台・実験台となってくれてありがとうという言葉で締めくくっておこう。

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