「口で言ってもわからないやつは体でわからせろ」とはすなわち「二次情報・三次情報を一次情報として分からせろ」という意味である
こういうのを見ていると「懐かしいなあ」という気持ちと共に「今の時代にこんな風景あるのか?」と感じることは多々ある。
だが、今回どちらが悪いのかと言えば、申し訳ないが私はそもそも子供たちの方が明らかに悪いという見解であり、実際親も学校もどういう躾・教育をしているのか?と思う。
確かに花壇にあるサルビアを吸うのは小学校時代にやったことがあるが、学校のものだけで人様の家庭のものに勝手に手を出したことは一度もない。
私が小学生の頃はセキュリティーが今と違ってザルだったから、休日であれば普通に学校に入れる時代だったから、学校で当たり前に遊んだことはある。
しかし、今となっては学校側も色々と規制が厳しくなっていて子供達も入りづらいから、こうして人様の家でやっているのだろうか。
まあ、バイトテロと称して飲食店やコンビニのバイトで色々やらかしたり、逆に大衆向けのチェーン店の寿司屋で醤油を舐めるような手癖の悪い悪ガキよりはまだ可愛げのある方だが。
何はともあれ、どんな形であったとしても、明らかにかけてはいけない種類の度の過ぎた迷惑をかけているので、これはジョウロ爺さんの方が対応としては適切である。
昔も今もそうだが、口で言ってわからないのであれば、体に傷跡を残す形でわからせるしか他に方法がないのだろうという一種の「見せしめ」だ。
子供という生き物は昔も今も残酷、すなわち善悪の判断を自分でできないから大人の目の行き届かないところでは何をしでかすかもわからない怖さを秘めている。
私は基本的に自分の両親と自分が身近に関わった人以外に叱られることは少なかったし、少なくとも「他所様に迷惑はかけてはならない」は感覚としても理屈としても親に叩き込まれていた。
だから、今回の子供達のような種類の明らかにバレる悪戯はやったことがないし叱られたこともないが、いわゆる「誰が仕掛けたのかわからない悪戯」は割と狡賢くやったことがある。
ただし、それはあくまで明らかに自分のみならず周囲に対して害を成しているいじめっ子体質のやつ限定で裏からそういう仕掛けをしたことがあるという程度ではあるが。
今ではこの漫画のジョウロおじさんがやっているような体罰はできなくなった、それどころか親御さんが「なんでそんな酷いこと言うんですか!」と怒鳴ってくることも少なくはない。
親が子供を叱らないあるいは叱れない甘ちゃんになった結果、子供は「怒らない=叱らないから何をやってもいい」と勘違いしてしまうようになったのではないか。
よく、「今の子供達は昔と比べて合理的で利発的になった」というが、果たしてそれはどこまで真実味のあるものだろうか?と思う。
そして同時に、「口で言っても分からないやつは体でわからせろ」もどれほどの説得力があるものだろうか?という風にも私は思うのである。
これは昭和と平成の狭間というグレーゾーンな生き方をしてきたプレッシャー世代ならではの部分集合的な、もっと言えば相対主義的な考え方かもしれない。
私は昭和も平成も令和もその全てを諸手挙げて賞賛しているわけではないが、だからと言ってその全てを否定しているわけでもないというスタンスを子供の頃から貫いている。
全ての時代に良し悪しはあるものだという認識だが、Z世代以降は(あくまで傾向としてだが)真っ向勝負で意見をぶつけ合い、格闘して何かを学ぶスタンスや教育のスタイルが通用しないのかもしれない。
以前の私の記事に共感してくださったフォロワーのフューさんが引用した記事でZ世代の致命的欠陥についてこう述べている。
なるほど、デジタルネイティブ=ノンアナログで育ったがために、言うなれば「擬似的な追体験=仮想現実(Virtual Reality)」として間接的にしかわからないのかもしれない。
我々プレッシャー世代までがギリギリ一次情報として知り得たことをゆとり〜Z世代以降の子達は子供の時から二次情報・三次情報としてしか知らないのではないか。
一見大人びていそううな彼らの人間性も一対一で生身の人間として深掘りして向き合ってみると、結局のところは「ただ頭でっかちなだけの実践能力のないクソガキ」にしかならないんじゃないだろうか。
そしてそれは言うなれば、言ってることとやってることが一致していない「口だけ人間」であるという風にしか私には思えないのである。
「口で言ってもわからないやつは体でわからせろ」とは言い換えれば「二次情報・三次情報としてしか摂取しておらずわかったつもりになった奴には一次情報として体に痛みを刻み込んででも分からせろ」だろう。
やはり、同じ「知っている」ことであっても、それが「ただのカタログ的知識として知っているだけ」なのか「実践を通して感覚的にもわかっている」のかで同じ知識・知恵でも重みや深さがまるで異なる。
私が大学時代にかつて先生を目指していながら結局はならなかった理由は、やはり自分よりも年下の人に対して「一理ある」とは思えても「でも結局年上のすごい奴の方からのが学べる」ことを知っているからだ。
子供と大人の決定的な違い、それは長い人生経験の差がもたらす「経験値」の差であり、それは例えどれだけ下の世代が能力高かろうが、決して埋められない差ではないだろうか。
いうならば正にこれ、ゆとり世代以降明らかに失われたのはハングリー精神というかいい意味での「競争意識」である。
少なくとも私の時代までは確実にあった、「自分が一番じゃなきゃ嫌だ!」「頑張れないやつはクズ!」という飢え乾いた向上心が……だから何事も一生懸命になれた。
国語でも英語でも、私は常に自分より上がいるのが気に食わなかったし、上がいるならそいつらをどうすれば抜かせるのかを常に考えながら勉強していたと思う。
だから上記の叱られることについても同じで、「あんな風に叱られるなんて恥」とくらいに思っていたし、一度やった失敗は何度も繰り返さないように戒めしていた。
結局のところ、「真剣に向き合えるかどうか」がある意味での決め手であると思うし、真剣に自らが向き合わないと誰もついてきてはくれない。
最初のジョウロで子供たちを殴って分からせようとしたことも、こういうことを繰り返していたら必ず人生のどこかで子供たちが躓くことになるから、そのことを知って欲しくてその恐怖を叩き込もうとしたのではないか。
Z世代の子達がいうことは一見「わかったつもり」あるいは「知った風」なことばかりで、解像度自体は昔よりも上がっているのだろうが、根っこの部分で「じゃあお前の意見は?」と聞くとさっぱり何も出てこない。
全てが自分できちんと痛みを伴って体得したものではない借り物の知識ばかりだから聞くに耐えないし、言ってること・やってること・考えていることがバラバラで一貫性がないから尚更信用できない。
そういう意味ではゆとり世代以降の人たちと向き合うことの難しさ・めんどくささは「知識」と「実践」が極端なまでに乖離しているが故に起こっていることなのかもしれない。
まあだからと言って、私は用もなくそんな下の人たちに何かを教えてやろうというつもりもなければ、逆に教わるべきこともないんだけどね。
改めてこの漫画を見て、私が年下の世代に対して覚えていた奇妙な違和感をより解像度高く具体的に言語化できた気がするので、そこにだけは感謝の辞を述べておこう。