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なぜ?頭悪い反AIは猫ミームや二次創作などダブスタだらけなの?

「生成AIはダメだけど二次創作はOK」

「生成AIは著作権侵害だが猫ミームはOK」

「生成AIは使わないけど、Grok導入したXは使い続けます」


もういい加減、矛盾だらけの反AI派の発言にイライラしている人も多いはずです。

そもそも大多数の人は、AIを積極的に推進しているわけでもなければ、生成AIのルール作り自体に反対しているわけでもありません。

ダブスタだらけで感情的で頭が悪くエゴイストの反AI派が、人間として最低であり信用できないから批判しているのです。

反AI派の皆さんは、「AIのルール作りが必要である」という主張自体が批判されているのではなく、貴方の人間性が批判されていることを自覚すべきでしょう。


反AI派の主張が矛盾だらけである点は以下の動画が参考になりましたので、引用させていただきます。


それにしても、なぜ反AI派の主張は矛盾だらけでダブスタだらけになってしまうのでしょうか?僕は2つの理由があると考えています。


理由①:反AIが生成AIを嫌う一方、猫ミームや二次創作に好意的な理由

人間の心理には、機械やAIに対する独特の感情的な反応があります。心理学では、この現象を「機械への抵抗」や「自動化への不安」として研究してきました。

特に注目すべきは、同じ行為でも、それを人間が行うか機械が行うかによって、全く異なる感情的な評価を下す傾向があることです。

具体的な例として、画像生成AIと同人作家の活動を比較してみましょう。同人作家が既存のキャラクターを使って新しい作品を作る場合、多くの人々はそれを「創造的な表現活動」や「原作への愛情表現」として好意的に受け止めます。一方、AIが既存の作品から学習して新しい画像を生成する場合、それを「著作権侵害」や「創作者の権利を侵害する行為」として批判的に見る傾向があります。

しかし、法的な観点から見ると、両者の行為は著作権に関して非常に似た性質を持っています。二次創作は原作のキャラクターや世界観を借用し、新しい作品を作り出します。これは厳密には著作権法上のグレーゾーンに位置する行為です。同様に、AIによる生成も、既存の作品から学習したパターンを基に新しい作品を作り出す過程であり、同様にグレーゾーンです。


心理学者のロバート・ザイアンスの研究による「単純接触効果」は、この現象を理解する上で重要な示唆を与えています。人は繰り返し接触する対象に対して好意的な感情を抱きやすいという法則です。

二次創作は長年にわたって同人文化として親しまれてきた一方、AIによる創作は比較的新しい現象です。この馴染みの差が、人々の評価に大きな影響を与えていると考えられます。

また、心理学者のフリッツ・ハイダーが提唱した「帰属理論」も、この問題を理解する上で重要です。人は出来事や行動の原因を推測する際、人間の行動には内的な動機(感情、意図、努力など)を見出し、機械の動作には外的な要因(プログラム、アルゴリズムなど)を見出す傾向があります。この認知の違いが、同じような創作活動でも、人間が行う場合とAIが行う場合で異なる評価につながっています。

実際の事例を見てみましょう。ある有名なアニメキャラクターの同人誌が販売される場合、多くのファンはそれを歓迎し、原作への敬意を示す行為として受け止めます。しかし、同じキャラクターをAIが描いた場合、「魂が入っていない」「創作者の権利を侵害している」といった批判が起きやすくなります。

この違いは、人間の創作に対して「努力」「感情」「意図」といった価値を見出しているためです。同人作家が徹夜で描いた一枚のイラストには、その過程での苦労や作品への愛情が想像できます。一方、AIが数秒で生成した画像には、そのような人間的な要素を見出しにくいのです。

心理学者のブルース・フッドの研究によれば、人間には「本質主義的思考」という傾向があります。これは、物事に目に見えない本質的な価値を見出す傾向のことです。

手作業で作られたものには「職人の魂」や「作者の思い」という本質的価値を感じやすい一方、機械的に生成されたものにはそのような価値を見出しにくいのです。

さらに興味深いのは、認知的不協和の理論との関連です。人は自分の中で矛盾する考えや行動を持つと不快感を覚え、それを解消しようとします。二次創作を支持しながらAI創作を批判する人々は、この矛盾を「人間の創作には魂がある」という理論で正当化することで、心理的な安定を得ようとしているのでしょう。

実際の事例として、ある同人作家がAIを使って背景を生成し、その上にキャラクターを手描きで描いた作品を発表した際の反応は示唆的でした。多くのファンは背景がAIで生成されていることを知ると否定的な反応を示しましたが、実は以前から3DCGソフトで作られた背景に対しては特に批判的ではありませんでした。これは、AIという新しい技術に対する感情的な反応が、作品の評価に大きく影響していることを示しています。

このような感情的な反応の背景には、技術の進歩に対する不安や、人間の創造性が機械に置き換えられることへの恐れがあると考えられます。

心理学者のエドガー・シャインの「心理的安全性理論」によれば、人は不安を感じると、その源となる対象を否定的に評価する傾向があります。AIによる創作への批判的な態度は、このような心理的防衛機制の表れかもしれません。


結局、「反AI=お気持ち感情論」という結論に落ち着きます。全く論理的ではない。ただの心理・感情の悪戯に過ぎません。

このような感情論に基づく判断は、技術の発展と創造性の本質的な理解を妨げる可能性があります。歴史的に見ても、写真の発明時には「芸術性がない」という批判が起きましたが、現在では写真は重要な芸術表現手段として認められています。同様に、AIによる創作も、新しい表現手段として発展していく可能性があります。

著作権の問題に関しても、単純な二項対立ではなく、新しい技術時代における創作活動のあり方として、より柔軟な制度や考え方を模索していく必要があります。

感情的な判断に基づく批判ではなく、客観的な分析と建設的な対話を通じて、人間とAIが共に創造性を発揮できる環境を整えていくことが求められているのではないでしょうか。


理由②:反AIは「好き嫌い」から無自覚でダブルスタンダードに陥っている

人間の心理には、自分の行動や判断を正当化しようとする強い傾向があります。この傾向が反AIのダブスタ主張につながっているのです。

特に「道徳」や「モラル」という概念を使って、実は自分の都合の良い解釈を通そうとする行動は、心理学的に見ても非常に興味深い現象です。

進化心理学者のロバート・トリヴァースは、「自己欺瞞理論」を提唱しました。この理論によれば、人間は他者を欺くために、まず自分自身を欺く傾向があるといいます。

つまり、自分の行動を正当化するために、自分でも信じ込める理由付けを作り出すのです。これは、AIと二次創作に対する異なる態度にも当てはまります。

具体的な例を見てみましょう。インターネット上で広く共有される「猫ミーム」は、多くの場合、著作権者の許可を得ずに画像を加工、共有しています。しかし、これを楽しむ多くの人々は、これを著作権侵害とは考えず、むしろインターネット文化の重要な一部として肯定的に捉えています。一方で、同じような人々が、AIが学習データから新しい作品を生成することを「盗作」や「著作権侵害」として非難することがあります。同じ行為に対して、人間が行うか機械が行うかによって、異なる道徳的基準を適用している典型的な例です。

この矛盾した態度の背景には、進化心理学者のジョナサン・ハイトが提唱した「社会的直観者モデル」が示唆を与えてくれます。この理論によれば、人間は多くの場合、まず感情的な判断を行い、その後でその判断を正当化する理由を探すといいます。

つまり、「好き」「嫌い」という感情が先にあり、それを「モラル」や「倫理」という言葉で後付けで説明しようとするのです。

心理学者のデイビッド・バスは、このような道徳的ダブルスタンダードが、人類の進化の過程で適応的な機能であった可能性を指摘しています。集団内での社会的評価を維持しながら、自分の利益も追求するという複雑な社会生活において、このような認知的柔軟性は有利に働いたかもしれません。


特に興味深いのは、人々が「モラル」という言葉を使う文脈です。

多くの場合、「モラルに反する」という批判は、実際の倫理的な分析に基づくものではなく、単に自分が不快に感じる行為を否定するための便利な道具として使われています

心理学者のスティーブン・ピンカーは、このような道徳的な言語の使用が、実は社会的な力関係や個人的な選好を正当化する手段として発達してきた可能性を指摘しています。

具体的な事例として、あるオンラインコミュニティでの議論を見てみましょう。会員たちは自分たちが作る二次創作を「ファンアート」として擁護する一方で、AIの創作を「盗作」と非難していました。

この矛盾を指摘されると、「人間の創作には魂がある」「AIには創作意図がない」といった、科学的に検証不可能な概念を持ち出して自分たちの立場を正当化しようとしました。

心理学者のレダ・コスミデスとジョン・トゥービーは、人間の心が「チート検知器」のような機能を持っていると提案しています。

これは社会的な交換において不正を見つけ出す能力ですが、興味深いことに、この機能は自分に都合の良い方向に偏って働く傾向があります。つまり、自分たちの行為は寛容に判断し、他者(この場合はAI)の行為は厳しく判断するのです。


また、集団心理学の観点からも興味深い現象が観察されます。反AI派のコミュニティでは、しばしば「創作者の権利を守る」という道徳的な大義名分が掲げられます。

しかし、実際の議論を詳しく見ると、その主張は選択的に適用されており、自分たちの活動には適用されない傾向があります。これは、社会心理学者のアンリ・タジフェルが研究した「内集団びいき」の典型的な例と言えるでしょう。

さらに、認知心理学者のダン・アリエリーの研究は、人々が自分の不正直な行動を正当化する際の心理メカニズムを明らかにしています。人は完全に不正直になるのではなく、自分の自己イメージを維持できる程度の小さな不正を行い、それを正当化する傾向があるといいます。

二次創作を擁護しながらAI創作を批判する態度は、まさにこのような「適度な不正直さ」の例と言えるかもしれません。


このような道徳的ダブルスタンダードは、単なる偽善ではなく、人間の認知システム(無意識)に深く組み込まれた特性です。

おそらく反AI派は自分自身が矛盾やダブルスタンダードに陥っている事に、自分自身で気が付いていない可能性があります

もちろん心理学や社会行動学は、昨今では多くのビジネスパーソンが学習している学問であり知っていて当たり前になりつつありますし、物事を客観的俯瞰的に見る能力やメタ認知能力が高い人であれば、自分自身が"心理の罠"に陥っていても自分自身で気が付き矯正することが出来るでしょう。

しかし残念ながら反AI派の皆さんには、そのような知性も無いように見受けられます。


まとめ。感情論を排除し、客観的論理と法律論で議論すべきである

生成AIの著作権問題について、法治国家である日本では、個人の感情や主観的な価値観ではなく、法律に基づいた客観的な議論が必要です。

日本国憲法は財産権を保障し、著作権法は創作活動の保護と利用の促進を目的としています。AIによる創作物の取り扱いについても、この基本的な法的枠組みの中で検討される必要があります。感情的な「AIは魂がない」といった議論ではなく、法律的な観点から権利と義務を明確にしていくべきでしょう。

特に資本主義経済において、新しい技術やビジネスモデルは、法的な整備を伴いながら発展していきます。例えば、かつてのインターネットの普及時にも、デジタルコンテンツの著作権について様々な議論がありましたが、最終的には法制度の整備により、新しいビジネスの発展と権利者の保護のバランスが図られてきました。

生成AIについても同様に、感情的な賛否ではなく、具体的な法的課題を整理し、必要な制度設計を行うことが重要です。例えば、学習データの取り扱い、生成された作品の権利帰属、利用許諾の範囲など、具体的な法的論点について、客観的な議論を進めていく必要があります。

また、国際的な取引や競争が活発な現代において、感情論に基づく過度な規制は、日本の産業競争力を損なう可能性があります。世界各国がAI技術の開発と活用を進める中、日本も新しい技術の可能性を積極的に追求していくべきでしょう。

重要なのは、前述したような「心理学的な罠」や「感情論」を完全排除し、法律論に基づいた客観的な基準に従って判断を行っていくことです。

これにより、創作者の権利保護と技術革新の促進の両立が可能となり、健全な市場の発展にもつながっていくはずです。


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