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下を見て満足させる、そんな大人にはなりたくない

こんにちは。はんぐりです。

これは私の父の話。とっても穏やかで怒ったことがない、菩薩のような父から出る言葉に対して、長年違和感を持ち続けています……


家族旅行に行こうよ!


今こんな状況で動けない人もいるんだから、それは必要ないんじゃないか?


たまには外食したい!


世界には食べられない人もいるんだから、わざわざ贅沢しなくてもいいんじゃないか?


どんな質素倹約??と思われるかもしれませんが、本当にこのレベルで日頃から会話をスルリと流されることがあります。

下を見て、不必要なものと判断する。我が家の大黒柱はちょっとした変化を好まず、同じ生活をずーーっと貫くことに長けていました。

頭では分かるのですが、なんだかとてもつまらなくて、子供ながらに『何でこんなに下を見せてくるんだろう?』と悲しくなった記憶があります。

本日のnoteは『下を見ることで満足させるような大人にはなりたくない』と思う理由についてお話しします。同じような方に出会った事がある方は、是非この記事を読んでみてください。


なぜ下を見ようとするのか?

23年間父親を横で見てきた私が思うに、このような考え方をする理由は主に3つあります。

①自分に対しても欲がない
②心理的・物理的余裕がギリギリ
③客観的正解ではなく、自分だけの正解を探さない

特に③が最も大きな要因な気がしています。 

自分に対する欲が無い

まず①ですが、そもそも彼には『これだ食べたい!行きたい!欲しい!』といった欲がほとんどありません。もちろん日常的にこれがいいな〜という好みはありますが、割と気分で変わるので特にこだわりが無いのです。

普段から穏やかで波風立てない生活を好むひとですから、どうしてもこれが…!みたいな感情で右往左往するよりも、無理なら無理だなと諦めてしまう。

そんな性格だからこそ、不必要な事は別にしなくても良いのでは?と思っているのだと思います。

まだ使えるけど、買い替えたい家具
別に行かなくても困らないけど、旅行に行きたい
特に意味はないけれど、美味しいものを食べたい

『けど』が枕詞に付く欲求に関しては、かなり腰が重いなぁと思います。


あらゆる面において、余裕が無い


②に関しては、お恥ずかしながら現実と向き合わなければいけません。そもそも裕福ではないので、養育費や家賃など日頃パツパツな状況になると+αで何かするという発想が生まれなくなります。

生きていけるならばいいや。まさに最低限度の最大幸福を信じずにはいられなくなる。そんな環境も影響してあるかと思います。

こだわりがないと、欲求は生まれない。

だからこそ小さな幸せを大切にできるのは素敵なことです。しかし人を動かすほどの欲求を持てないことも、また事実だなぁと感じました。


自分達だけの正解を探さない

そして最もインパクトが大きいのは、③でお伝えした『自分たちの正解を探そうとしない』ことです。

これが普通だから
皆がこうしているから
一般的に十分なほどだから

そんな理由を並べて、客観的な常識で判断する。でも実はそれが家族にとっては不正解で、足りないピースが一生埋まらないこともあるのです。

無関心なのか、考えるのが面倒なのか。多分どちらもあるかと思いますが、多分0→1を生み出すことが苦手なのでしょう。現状維持とは違うことをすると、負荷がかかってストレスになるタイプ。

そんな父親のことを、あーーなんてつまらないのだろうと感じるか、あーーーなんて安定なんだろうと感じるかは、見方の問題でした。


でもやっぱり私は、歪な形をしていようとも、家族ならではの楽しみや豊かさを作っていきたい人間なのかもしれません。


下を見て満足させる、そんな大人にはなりたくない。


仕事、家庭、恋人や友人。全ての人間関係に当てはまる、私が大切にしている価値観の一つです。

良い悪いではないので、悪しからず。
同じような価値観や個性のお持ちの方がいらっしゃれば、是非仲良くなりたいなぁ。

本日も読んでいただきありがとうございました☺︎

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