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感想;HODZINE「せめて謙虚でありたい。できれば寛容でありたい。」はままつ君

文学フリマ東京で買った『HODZINE』は、浜松オンライン読書会で作られたアンソロジーだ。そのなかの、はままつさんのエッセイを読み終えた。

はままつさんは浜松オンライン読書会を主催されていて、私はそのなかの『世界哲学史』シリーズの読書会に参加させていただいている。
なので、読書会に参加してはままつさんと話しているうちに、はままつさんの哲学における興味・関心の領域がなんとなくわかってくる。

今回のエッセイは、正義を切り口にはじまった。はままつさんは哲学を抽象概念にとどめず、常に実践を視野においているようにみえる。それは彼が読書会の運営をしていることと無関係ではないだろう。

会の運営には秩序を保つためのジャッジ(判断)が必要だ。自由と公平のバランスがよくないと、コミュニティは縮小してしまう。
発言の自由は、場の安全性が担保されているからこそだし、コミュニティのメンバーが心地よくあるためには各々の発言が平等に尊重されなければならない。

しかし自由な場でも行き過ぎた表現には警告を発する必要がある。文字だけのやり取りであったり、クローズドな空間であったりすると、調子づいて言い過ぎてしまうことがある。そこをやんわり注意したり誘導するのは、主催であるはままつさんの「責任」でもあるが、それ以上にはままつさんが望む「互いをリスペクトしあうような場」の維持でもある。例えるなら、伸びた草をむしり樹木を刈り、メンバーがベンチがあるといいなと言えばベンチを、東屋が欲しいと言えば東屋を用意するような、そんな丁寧で目配りのきく会の運営だ。

自分以外の人間に発言を聞いてもらうには、言葉を丁寧にラッピングして相手に差し出す。謙虚さとはそういう「聞いてもらう」という態度だ。そして、それを受け取る側にも礼儀が求められる。

内容と態度は別物だという意見もあるが、そもそも対等な場で態度の悪い人は敬遠される。寛容にも限度はあるのだ。そして、態度の悪さというものが内容の正しさに関係なくても、一度ついてしまったその人の印象を拭い去るのは難しい。
「この人ってこういう言い方をするのか」という悪い印象は意外とあとをひくものである。

逆に、丁寧に届けられた言葉は意見の相違があったとしても受け取ってもらえる。きちんと受け取ることがひとつの礼儀だからだ。

ここまでの前提があった上で、私たちは意見についての判断が正しく行える。相反する意見のメリット・デメリットをはかり、話し合うことができる。盲点を指摘し合うことで、問題解決のブラッシュアップができる。ときには問題解決の合意まで達せず、物事を曖昧なまま保留せざるを得ないこともあろう。白黒はっきりつけずにいることはストレスを伴う。PCのモニターにタスクを書いた付箋がいつまでも残っているような。しかしこの負荷もまた、私たちには必要なことだ。曖昧な状態に置かれたときにこそ、どんな態度をとるかどんなスタンスで振る舞うかを私たちは問われている。今ではほとんど誰も言わなくなってしまった「人間としての成熟」がそこにはあるのではないだろうか。

読書を通じた人間性の涵養なんて、すでに意味の通じない言葉かもしれないけれど、ともに同じ本を読んで、はままつさんのエッセイに触れて、そういうことを信じてみてもいいと思った。

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