noteで過去をぶっちゃけるのは「恥の意識の解放」につながるという話
20代の頃の僕は対人恐怖的なところが強くあり、恥の感情に苦しめられていた。
それが原因で実家へ数カ月引きこもったことがあったし、とにかく行動することが怖かった。
行動して失敗すると自分の心がひどく傷つくことは目に見えている。それなら「何もしない方がリスクはない」という悪循環に陥っていたのだ。
引きこもり経験者だったのでわかるのだが、恥をかきたくないという気持ちが強くなりすぎると、過度に防衛的な振る舞いをするようになる。そして人生が行き詰まる。
2023年の2月からnoteを毎日書くようになって、これまで人に言ったことがないことを、どんどん綴るようになった。
これによって自己受容が進み、ずいぶん生きやすくなっている。
noteという心理的安全が確保された場所で、自分の過去という恥をさらけ出すことは、僕にとって自己受容のセラピーそのものだった。
劣等感が強くなるほど、自意識過剰になり「恥をかきたくない」という思いが強くなる。
しかし実際に「恥をかいた」と感じているとき、周囲の人は気にもとめていないことが多い。
当人だけが「この世の終わりだ」と青ざめ苦しんでいる。
キリスト教圏の欧米は罪の文化で日本は恥の文化だとよく言われるが、日本人はもっと恥のさらし方を学んだ方がよい。
恥をさらすという行為は、自己開示そのものだ。
恥をさらしたあと「別に他人は自分のことをそれほど気にしていないんだ」と気づくことは客観的に自分を見ることにつながり、自己受容できるようになる。
「生き恥をさらす」という言葉があるが、生きるとはすなわち恥をさらすことだ。
重要なのは恥をさらしたあと、当人がそれをどう解釈するかだろう。
「恥をさらしても大丈夫」と感じられたら生きやすくなる。反対に「恥をさらしたら一巻の終わり」と捉える人は生きづらさが増してしまう。
noteでたくさん恥をさらしてきた僕は、恥への認識が大きく変わった。
恥ずかしかった経験は、書けるネタそのものだ。
恥を開示する行為は、誰かを勇気づけることだってあるかもしれない。
心理的安全がしっかり確保されている場で、恥をさらしてさらしてさらしまくると、途端に生きやすくなる。
「なんだ。自分はこんなことで悩んでいたのか」とリフレーミングできるようになる可能性も高い。
だまされたと思って、ぜひ一度やっていただきたい。