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毒親、ダブルバインド問題を理解したい人にオススメの本『世界は贈与でできている』(著)近内悠太

拙著「全HSPに伝えたい!自己愛さん対策&回避術」

「歪な自己愛を持つ人間には、くれぐれもご注意を」と注意喚起させていただいた。

著書の中で「自己愛は、贈与とともにやってくる」と記した。

有形、無形の贈与によって好印象を与えられたあと、いつの間にか操作されていた経験を僕がしていたからである。

近内悠太さんの『世界は贈与でできている』は『資本主義の「すきま」を埋める倫理学』という副題のとおり、資本主義経済と贈与などにも触れているが、毒親問題にも言及している。

本書の第3章『贈与が「呪い」になるとき』が特に興味深かった。

まず我々は、大前提として何もない状態でオギャアと生まれてくることを押さえておかなければならない。極めて無力で脆弱な存在である赤ん坊は、養育者の贈与なしに成長できないのだ。つまり人間は生きる上で、必ず他者からなんらかの贈与を受けていることになる。

歪な自己愛を持つ毒親を語る上で「ダブルバインド」の問題は外せない。

ダブルバインド(英: Double bind)とは、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること。この用語はグレゴリー・ベイトソンによる造語である

「ダブルバインド」Wikipedia

表情と行動が一致していない、というのもダブルバインドに含まれる。ニコニコ柔和な笑顔を浮かべながら、相手に暴力を振るう行為はダブルバインドだ。

「お前が大切だから殴る」と愛情があるていで、相手を痛めつける行為もダブルバインドだろう。

さて本書のダブルバインドの項目で「これはコミュニケーションの本質だ」と思える箇所があったので引用させていただく。

禅の修行において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。その中のひとつに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言うのだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在しないというのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ」。(…)禅の修行僧なら、師から棒を奪い取るという策にも出られるだろう。そしてこの対応を、師が「よし」と認めることもあるだろう。(『精神の生態学』、296頁)

近内悠太『世界は贈与でできている』85頁

この師と弟の関係は、ハラスメント加害者と被害者、DV加害者と被害者の関係に似ている。

こういった行為や状況は、交流分析でいうゲームに該当する。だからこそ、被害者というポジションから脱したければ「ゲームへの参加をやめる」というのが最善の策だ。

引用させてもらった禅問答の修行に当てはめると、師から棒を奪い取る行為は、ゲームを終わらせることにつながる。

DV加害者の場合は、暴力を振るったあと、急に優しくなるのは非常によくあるパターンである。優しくされた途端「本当は悪い人じゃないんだ」と錯覚して、逃げられなくなることも多い。
そもそもだが悪い人じゃないのなら、最初から暴力など振るわない。暴力という手段を選んでいる時点で、悪い人に分類されてもしかたない。
「傷つけてから癒す」というマッチポンプ的な歪んだコミュニケーションをしかける加害者の多くは、すでに病んでいる。

「人の悩みのほとんどは、人間関係」というが、これは間違いない。

思えば僕も自己愛者との関係に悩んでいる渦中にいるときは、ゲームを仕掛けられて「どうやったら相手と折り合いをつけられるか?」「最も良い解決策は何か?」をぐるぐる考えていた。

今なら、はっきり言える。

最もあなたの心を守る対応策は、相手との関係を断ち切ること、心の領域侵犯を許さないことである。

家族が自己愛者なら、関係を断ち切ることは難しいかもしれない(悪質な家族なら、疎遠になった方が救われるケースもあまたあるが)。

その場合は、必要最低限の関わりしかせず、情の交流が発生する会話を避けることだ。

DVサイクルと同じで、こちらが「悪い人じゃないんだ」と心を許した瞬間に、相手は増長しまたあなたを傷つけにかかるだろう。

かけがえのないあなたの心を守るためには、ゲームを仕掛けられた際「ああ、また始まったな」とシビアな目を向けて、相手の挑発に乗らないことである。

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