読まなくなった、あなたたち。
大人になって「読む」という行為がおおきく減ったと思う。
「いやいや、会社の資料とか専門分野の勉強で読んでるよ」
と思うかもしれないが、そうじゃない。
みんなが想像している「読む」は「黙読」だと思う。ぼくがいっている「読む」は「音読」のことだ。
音読、それも「長文を読む機会」が大きく減っていると言いたいのだ。
皆無といってもいい。
文章を感情に乗せて音読するのは今や、歌の「歌詞」だけではないだろうか。歌には大きく救われていると思う。
学生時代ぼくらは、音に感情をのせ多くの物語を読んできた。
小学校でよんだ「ごんぎつね」「モチモチの木」も未だに覚えている。
中学の「少年の日の思い出」も、高校の「山月記」もだ。
友だちのいい間違えや、つまる姿にダメと分かりつつ少し笑った思い出や、自分が当てられないようにと前の友だちに背に隠れるように身を縮めたことすら覚えている。
友だちのやたらデカい声、鼓膜にとどかないような小さい声も。
しかし、大学、大人になってから極端に音読がなくなった。大学でも少なからず現代文などの教科があった人もいるだろうが、あまり内容を覚えていないのではないだろうか。
これは「声に出して読む」がなくなったからだと思う。
黙読が、記憶に残りにくいのは、なぜか?
それは、黙読がバスで行く遠足のようなものだからだ。周りの風景なんかはサッと流れてしまい記憶に残るためのひっかかりが少ない。
一方の音読は、徒歩で行く遠足だ。1歩1歩をふみしめた大地やそこに横たわる風景をゆっくりと知覚し記憶することができる。
この目で追うだけか、声に出すかの違いで、一生心に残るか残らないかが決まってしまう。
この記事をかくために脳科学の観点からもそれが言えるのかを調べてみた。するとやはり、言葉に出すと複数個の脳機能が同時に働くため、記憶に残りやすいそうだ。
さて、ここまで我が物顔で述べてきたが、じゃあぼくが毎日のように音読をしているかと言えば、それはNOだ。
大好きな広告コピーなどは意識して声に出して読むようにしているが、長文となるとそうはいかない。
けっして時間がゼロなわけでもない。
結局、その空き時間を「音読」にさくまでの有意義性を見いだせてないだけなのだ。
してるひとはしてるし、習慣になっている人はそれを努力とも思っていないだろう。
ぼく自身、緩やかに音読をつづけていて少しずつその良さが身にしみてきた。
自分の体調が声色でよくわかる。無理してるなとか、疲れてるなとか。
そして、その文章を書いたひとが「こう読んで欲しいんじゃないかな?」っていうのも少し感じられるようになった。著者さんの気持ちとシンクロしたのでは?と思ったことも、いくらかある。
音読は、自分とも著者さんとも会話でき、より楽しく「読む」を追求できる行為なんだなと、最近腑に落ちてきた。だからこそ、今ここで音読の良さを、声に出す良さを、読むことのすばらしさを伝えたいと思った。
1度でいいから、時間を作って音読をしてみてほしい。声に出して読んでみてほしい。
いつも以上に、言葉が自分に染み入ってくるこの感覚をただただみんなと共有したい。自分と著者との会話を楽しんで欲しい。
そう思ってならないのだ。