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かれこれ9年目のごみ拾い。

落ちているゴミを淡々と拾う。ただただ拾う。たまに振り返る。キレイになっている自分の軌跡に少し口角があがる。また前を向き、拾う。拾わせてもらってる。

地元、大分県の海にて

はじめは大学生の時にボランティアとして参加して、今のいままで続いている、ごみ拾いの活動。

20歳のときにはじめたから、かれこれ9年目。

毎日ではないからライフワークと言うほどのものでもないが、月に1回以上は確実に行っている。

鬱で沈んでいるときは、毎日、朝・夜の2回行っていた時期もある。

昔はボランティア活動に参加する側だったが、いまは「ぼくはこの日にゴミ拾いするよ、したい人いたらおいで〜」といった非常にハードルの低いボランティア団体の代表として海のごみ拾いを淡々と続けている。

多いときは30人ほどが集まった。少ない時は3、4人。

それでもやることは変わらない。目の前に落ちている、もしくは漂っている海ゴミを淡々と拾っていく。

会話したい時は会話するし、黙々と拾いたい時はそうする。和気あいあいも、沈黙もある。そんな趣味のようなゴミ拾いが大好きなのだ。

だれに強制されることもなく、やりたい人で集まって、やりたいようにやる。

たくさん人がきたからと言って、うれしいわけでも悲しいわけでもない。「朝9時からごみ拾いしたがるなんて、世の中変な人もいるんだなぁ」って漠然と思う。

まぁ、周りから見たらその先端にいるぼくは、もっと変なんだろうけど。

冒頭にも書いているが、拾わせてもらっている感覚がある。

日常、トイレすればそれを下水に流しているし、ポケットに入れていたゴミがいつの間にか消えていることもある。つまり世界にゴミをまいてしまっているのだ。

せめて、じぶんが解き放ってしまったゴミくらい、自分で拾いたい。拾いたいのだが、どれが自分のゴミかなんてわからないので、目の前にあるゴミを淡々と拾っている。ただそれだけ。それだけを9年。

飽き性だが、我ながらよく続いているなと思う。

それは自分が出した分を拾ってる感覚だからというのもあるが、単純に楽しいからというのもある。楽しいことは続けられる。当たり前すぎるけど、その実は深いものがある。

楽しくても続けられないことなんて山のようにある。そこに「利」を感じられないとやはり続かない。

ぼくにとっての利は、同じような感覚を持った人に出会えることと、拾ったぶんだけ運をまとえるような気分になれるからだ。あとは、シンプルに楽しいこと。

気分が向いたらSNSなどで小さな告知をする。それをみつけてくれて「朝イチいっきまーす!」なんて返事をくれる、変な人にあえるのが堪らなくうれしい。

そりゃそうだ。感覚の合う人と有意義な時間を共有できるのだから、うれしくて当たり前だろう。好きな人と好きなことをして過ごす時間が心地よいのと同じだ。

そして、だれかが落としたり捨てたゴミを拾わせてもらうと、だれかが同時に落としていった「運」も拾っている感覚がぼくにはある。だから、拾えば拾うほど豪運の持ち主になっている感覚があるのだ。

それによって宝くじがあたったとかそういうことはないし、そもそも宝くじを買うのは馬鹿らしいことだとすら思っている。(宝くじ買ってる人、ごめんなさい)

ただ、それがまた新しいご縁をうんでくれると考えるとただただうれしく、そしてワクワクしてくるのだ。

これからも続けていこうと思う。というか、そんなことを思わなくてもやりたい時には自動的に体が動くようになってしまっている。

これが、俗にいう「習慣」というものなのだろう。

楽しいこととか、自分が望むことなんて意識して習慣にすることもできるだろうけど、たいていは自然にそうなっていると思う。

じじいになっても続けていることが、これからの人生、あと何個できるか。それを楽しむ人生でもありたいね。振り返ってみて「狂気じみたことずっと続けてるなぁ」みたいなおもしろい人生でありたいな。

人生、死ぬまでの暇つぶし。もちろんいい意味ね。

どうせなら、楽しい暇つぶしにしていこうじゃないの。ということで、今日も一日、楽しんでいきましょう♪

仕事、いってきます。


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