「異人たちとの夏」は、どうかしてた。
40歳過ぎの脚本家が、幼少期に事故で失った両親と再会する物語。楽しい日々を送るも、主人公の英雄は徐々に死界へと足を踏み入れる。
人情味溢れる浅草で、束の間、日常を忘れることができた日々。後半にかけて孤立と幻想が交差し、観るものを不思議に郷愁へと誘っていく。
「異人たちとの夏」
(監督:大林宣彦、1988年)
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35年前に製作された映画である。
もちろん、それっぽさに溢れているのだが、「ああ、今こういう作品が作られたらいいのにな」と口をつきそうになる。その理由は何だろうと考えると、風間杜夫演じる原田が見せた「子どもっぽさ」にあった。
12歳のとき、原田は両親を交通事故で失ってしまう。なのに浅草で父の面影を発見し、そして何食わぬ顔で父は原田を自宅へと誘う。「こいよ」と気楽に声を掛けるのだが、原田は“何が起こっているのか”分からずにいる。顔は両親にそっくりなのに、「生きているわけがない」と思い、敬語で話し掛け続けるのだ。
逢瀬を繰り返し、ふと「あなたの苗字は何ですか?」と聞く。すると秋吉久美子演じる母親は、「なにいってるの。原田に決まってるじゃない。子どもと親は同じ苗字よ」と笑いながら言う。そこで原田はようやく両親と再会できたという感情を露わにするのだ。
……そりゃ、そうなるよなあという展開で、思わず頷いてしまうのだ。
だが、既に死んだ両親との再会は、残念ながら自らを死に近付ける行為である。物語が面白いのは、「我が子を死に追いやっているのが(死んだ)自分たちである」と、両親が気付かないことだ。確かに、両親と会っているときの原田は何ら変わらない。だが、両親と別れた後の原田は徐々に弱っていく。目の下には大きなクマができ、歯は抜けかかり、やがて老人のような出で立ちになってしまうのだ。
人情味溢れるストーリーと、どこかホラーを思わせる世界観が同居する。でも、ホラーでもスリラーでもない。物語の作り手たちが描いたフィクションであり、それはさも当然の成り行きであると観る側も納得してしまう。作り手と観客、これぞ理想の共犯関係だ。
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全てが終わったとき、友人の間宮から「どうかしてた」んだと諭される原田。でも回想しながら、不思議な日々を愛おしみ、そして感謝の言葉を述べる。
僕の両親は、まだまだ健在である。だが、親を失ったときに、「異人たちとの夏」で風間杜夫が見せたような無邪気な子どもっぽさを懐かしく思えるのではないだろうか。
風間杜夫も秋吉久美子も、片岡鶴太郎も、名取裕子も。役者がみんな良かった。
「どうかしてた」で片付けらてはたまらない。「どうかしてた」のは確かだけれど、「どうかしてた」の奥にはたぎるような熱い感情が根付いている。その感情を表面的には示さず、ストーリーの中で仄めかすだけ。なんて上品な映画だろうか。
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本作のリメイク版として、アンドリュー・ヘイが監督を手掛けた「異人たち」が先週末から公開されている。
どんなふうに「異人たちとの夏」を脚色しているのか。早く観たい。
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