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『わたしを離さないで』~原作小説を読んでみた、映画も見てみた

きっかけは中学生の息子が、夏休みの読書記録用に学校の図書室から借りてきた一冊の本。

おおっ!息子よ!それは、春馬くんが出ていたドラマ『わたしを離さないで』の原作小説ではないか!
去年の冬頃、私が自宅でAmazon primeでこのドラマを視聴していた時に、確か近くに息子がいたっけ。息子の頭の片隅にそれが残っていて、ふと借りてみようという気になったのかな。

それを機に、私も、原作小説を読んでみようという気になり、途中まで読んでなかなか進まなさそうだった息子の借りてきた本を半ば横取りする形で読み始めた。

さらに、その後、2010年公開の英米合作映画『わたしを離さないで』も気になって見てみた。

ここから先は、ネタバレになるので、これからチャレンジするつもりの方は、終えてから戻ってくることをお勧めする。

原作小説を読んでみた

原作小説と言っても、私が読んだのは日本語訳。

原作小説の表紙は、全面いっぱいに描かれているのはセピアカラーのカセットテープの絵だ。これは、物語のタイトルにもなっている「わたしを離さないで(Never let me go)」の曲が入っている「Songs after Dark」というミュージックテープを表しているのだろう。

私は、既にテレビドラマという種明かしを見たうえで原作小説を読んだので、何も知らず徐々に秘密が解き明かされていく過程を辿っていったのとは大いに異なる感想を持ったと思う。なんの予備知識も持たずにこの小説を読んだら、どんな感想を持っただろう。そちらのパラレルワールドに移行して体験してみたくもある。

原作小説は、その年いっぱいで介護人を辞める主人公キャシー(テレビドラマの恭子役)が、過去を回想する一人語りで進んでいく。臓器提供のために造られたクローンという重い運命を背負わされている割には、訳し方のおかげなのだと思うがその語り口調は軽快で、そのせいか意外に読みやすく、すいすい読めた感じだった。

自分語りだから本音が盛り込まれているせいか、誰にでも優しくて優等生だったテレビドラマの恭子に比べ、原作小説のキャシーはルース(テレビドラマの美和)に対して少しだけ仕返しをしたりわざと機嫌を取ってみたりというところもある。
ルースは、自己中心的で見栄っ張り。事実をわざと明言せず思わせぶりにほのめかし周りの人に想像させ羨ましがらせることで優越感を持つ、という小賢しいタイプ。
でもだからと言って、キャシーが一方的にルースにやられっぱなし、というわけでもない。
例えば筆入れ事件では、ルースが新しい筆入れを、それがさも人気のある保護官からのプレゼントであるかのようにほのめかす。いい加減うんざりしていたキャシーは、ルースの鼻をへし折ろうと考えて、ルースに嘘を見抜いているのをわからせ気まずい想いをさせるような言動を取ったりする。
また、コテージに移った後、先輩カップルの真似をして別れ際にトミー(テレビドラマの友彦)の肘をつつく合図をするルースに「何から何まで真似をしてばかみたい」と揶揄したりもする。
二人の間には、随所に嫉妬や優越感、劣等感に操られた微妙な心理戦が見られる。それなのに、夜中にはまるで別人格のように二人で熱いお茶をすすりながら、まるで唯一無二のソウルメイトのように親密に打ち解け合う時もあったり。密に絡み合い傷つけ合い親友。そういうのって、ある。

またトミーの人物像に関しては、日本語に訳す時の問題だと思うが、口調が「~だぜ」とか「~してくれよ」など男口調で書かれているので、男っぽい印象を受ける。
少し気の利いた賢さも持ち合わせているようだ。トミー15歳の時の、ヘールシャムの秘密についての考察からそれが伺える。

何をいつ教えるかって、全部計算されていたんじゃないかな。保護官がさ、ヘールシャムでのおれたちの成長をじっと見てて、何か新しいことを教えるときは、ほんとうに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ

このトミーの考察は、とても的を得ているように思うので、トミーは本来とても勘のいい男の子なのだろう。
また、電気回路を模した架空の動物の絵を描いたりするあたり、かなり独創的な想像力の持ち主だ。
癇癪持ちなところは大人になってからはなりを潜めるのだが、のちにキャシーがこの癇癪のことを

あの頃、あなたがあんなに猛り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかって思って…

と言うが、そうかもしれないな、と思った。トミーは本能的に、自分たちの秘密を小さいころから知っていたんだ、その理不尽な使命をきっと潜在的に知っていたのだと思った。

また、ヘールシャムで暮らした少年少女時代にはキャシーとトミーが相思相愛だった様子はほとんど感じられなかった。原作小説の表紙にもなっているカセットテープだが、キャシー自ら販売会で購入したものだし、曲をかけながら踊っているのをマダムさんに目撃されたのもキャシー一人だけだ。テレビドラマでは、トミーからのプレゼントであり二人で曲をかけながら踊っているところをマダムに覗かれる場面だ。恋仲というよりは、キャシーとトミーはヘールシャムの隠された謎について時折こっそり考察し合う同志のようだった。キャシーは、トミーとルースがカップルになったことを回想するところでも傷ついている様子もなかったし。

一度ルースとトミーのカップルが別れたことがあり、学苑内で「ルースの後釜はキャシー」と噂されたあたりから、キャシーはトミーを恋の相手として意識するようになったのかな、と思う。
キャシーの一人語りで進む形式上、なかなかほかの人物が実は何を考えていたのかわかりにくいが、のちにトミーから、昔キャシーが失くしたカセットテープを自分も一晩中必死で探した話が出たことや、イギリスのロストコーナーであるノーフォーク(ドラマ版ののぞみヶ崎)でそのカセットテープ探そうと持ち掛けるあたりから、ああ、やっぱり幼少期からトミーはキャシーのことを好きだったんだな、と言うことが読者にもわかるのだ。

そのノーフォークで、ルースとの諍いの後別行動を取ると言い出したキャシーに同行するトミー。トミーの提案で、件のカセットテープと同じものを探し、遂に見つけた2人がとても眩しかった。文章なのに、なんとも眩しかったのだ。失くし物が集まるノーフォークだから、きっと見つけられるはず、とはしゃぐ2人。そして、本当に見つけ出すなんて!
奇跡が起こった、と思ったし、そして、これからもきっと奇跡は起こるはずと、希望に満ちたシーンだった。その前に、先輩達から本当に愛し合うヘールシャム出身のカップルに与えられる猶予の可能性を聞かされた後でもあるし、2人には明るい未来を期待できるのではないか、と思ってしまった。
だからこそ、エミリ先生(テレビドラマのえみこ先生)を訪ねて猶予など本当は存在しないと告げられた後の2人の絶望は、あまりに辛すぎた。暗闇に響くトミーの叫びと慟哭が、まるで私にも見えて、そして聞こえてくるようだった。

終盤。
猶予は存在しないと分かり絶望したトミーは、次の提供にあたっての醜態を見せたくないからと、介護人をキャシーから別の人に変えて欲しいと申し出る。そして実際に介護人を別の人に交代することになり、2人のお別れの日、いつもの調子で少しおどけたトミーを車のバックミラーで見るキャシーが哀しすぎて。
トミーが使命を終えた2週間後、夜ひとりノーフォークまでのドライブを、キャシーは「一度だけ許した甘え」と称する。車を停め外に出ると、立ち入り禁止を意味する有刺鉄線が二本張られたところに、ありとあらゆるごみが絡み付いていたのを目にする。それを見て、ノーフォークに集められた、子供時代からのあらゆる失くしものを空想し、目を閉じトミーの面影を見たのだ。それが唯一の「甘え」だなんて。

悲しい結末を知っているのなら、”愛”と”希望”は「薬」なのか「毒」なのか

私は、本作を2回読んでみた。

1回目は、テレビドラマと異なる細かいところに囚われながら読んだが、2回目は作品そのものに没頭することができたように思う。

1回目の読了後、私には悲しみ、寂寥感、無力感だけが残った。

2回目の読了後は、「悲しい結末を知っているのなら、愛と希望は、薬なのか毒なのか」という問いがわいてきた。

この作品中では、本来クローンである提供者は人間として認められていない。科学の進歩により、臓器提供で命が助かるという蜜を吸ってしまった以上、進歩前にはもう戻れなくなってしまった人間たち。だから、罪悪感を拭うため提供者には”こころ”が無い、ということにしたかった。提供者は”道具”として、劣悪な環境で成長し提供という使命を終えるのが通常だった。
なのに、ヘールシャムでは、生徒たちに使命についてひた隠しにして育てる。その中で、学ばせたり絵を描かせたり遊ばせたりして普通の人間に近い子供時代を与えていた。これは、エミリ先生が提供者にも本当は”こころ”が、”魂”があることをわかっていて、それを世に知らしめるためという人道的活動のためだ。
だけど、ヘールシャムの異端ルーシー先生は、真実を知らずに夢を語り希望を持つ生徒たちを見て、おそらく良心の呵責に耐えかねて、ついに生徒たちに言い放ってしまう。「無益な空想はやめなさい。みっともない人生にしないために。」と。

悲しい結末が待っていても、それまで愛と希望を持たせてあげたかったというエミリ先生と、

悲しい結末が待っているならば、愛と希望を持ってしまったらみじめになるから無い方がいいというルーシー先生

提供者たちにも”こころ”は当たり前にあるから、愛も知ってしまう。そして、きらびやかなオフィスで働く将来の姿を夢見るルースや、猶予の希望を持ちチャレンジするキャシーとトミー。

その ”愛” と ”希望” は 無駄なの?みじめなの?

猶予の希望を断ち切られた時、トミーが「正しいのはルーシー先生だ。エミリ先生じゃない」と言う。
そして、最後に、トミーがキャシーに介護人を変えてくれと言うところで、トミーは「ルースならわかってくれるはず。君は提供者じゃないからわからない」と境界線を引く。介護人を変わることを受け入れるキャシー。

そうやって使命を終えてしまったトミー。
その”愛”と”希望”は、「毒」ということで終えてしまうのか。

・・・もう、全然救いがないじゃないか。

2回目の読了後も、やはりそう思った私。無力感、寂寥感、悲しみ。

でも、すごく考えさせられたことは確か。愛と希望を持つことについて。

と、まあ、かなり手厳しく書いてしまったが、文学作品としてその表現力はとても素晴らしかった。特に、主人公の細やかな感情の機微は、手に取るようにわかったし、「うんうん、私もそう思ったことある」というような共感の連発だった。また、会話や表情のやりとりから、空気を読んだり暗黙の了解で意識を共有したり、この作品について作者のカズオ・イシグロ氏が「自分の作品の中で最も日本的」と称したと言うが、このあたりがその所以なのかな、とも思った。

英米合作映画を見てみた

続けて2010年公開の英米合作映画『わたしを離さないで』も見てみたが、こちらの映画は、原作にほぼ忠実に作られていたと思う。

少年少女時代に、キャシーとトミーがお互い恋心を持っていたらしいことは、映像上も描かれていたので原作よりわかりやすかった。

特筆すべきはやはり、この映画の中でも、ノーフォークの中古屋ででキャシーとトミーが件のカセットテープと同じものを見つけた時のシーンだ。二人の希望の煌めきは、最高潮に幸せでとても鮮烈で、見ていて、私もとてもワクワクした。

だからこそ、その対比で、猶予の望みが絶たれたと知ったあとのトミーの絶望の叫びと慟哭がどうしようもなく辛すぎた。暗闇で泣き叫ぶトミーを必死で抱きかかえるキャシー。見ていて、心が引き裂かれそうに痛かった。

一つ決定的に原作と異なるのは、キャシーは最後までトミーの介護人をしていた点だ。トミーの最後の提供を窓越しに見守るキャシーがいた。そして、前述したような悲しいトミーのセリフ(「ルースならわかってくれる」とか「ルーシー先生が正しい」というセリフ)は無かった分だけ、キャシーとトミーは分かり合えたまま終わりを迎えたように思えた。
本映画のマーク・ロマネク監督も、どこかに少しでも救いを入れたかったのかもしれない。

さてさて。テレビドラマ『わたしを離さないで』に続けよう

原作と映画両方を鑑賞して、多かれ少なかれ、私は悲しみ、寂寥感、無力感で終わってしまった。なんて救いのないエンディング。本作で、作者のカズオ・イシグロ自身、何を教示しようと思っていたのかはわからない。臓器提供ののために造られたクローン(提供者)というのは現実には存在しないわけで、そういう存在を作り出しそのクローンにも実はある”こころ”について緻密に時に刺激的に描くことによりドラマティックに読者の心を揺さぶる、それこそが目的だったのかもしれない。本作で何かの教示を提供しようとは思っていないのかもしれないし、だから、読者が悲しみ、寂寥感、無力感を残して終わるのは狙いどおりなのかもしれない。
そういう意味では、映画もそれに則って作ったとすれば、それは成功を収めている。おそらく、この映画を映画館で見た人たちは、出てきた後に深いため息をついたんじゃないかな。

これから原作を読もう、映画を見よう、と思っている方達の気持ちを削いでしまったかも。ごめんなさい。

でも、これが私の正直な感想なのだから偽るわけにいかない。

だからこそ、さてさて。

テレビドラマ『わたしを離さないで』を見ないで終わるわけにはいかないのだ。
続けよう。





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