夏目漱石『草枕』 (4)「菟原処女の伝説」編 – 索引で読む文学作品
前回は、『草枕』の主人公「余」が何をどのように「能に見立てる」ことをしているかを具体的にみていくことで、「読みやすくするため」の手がかりをさぐってみました。そうすることで、抽象的に語られる「非人情」が目指すものが何なのか、それを導き出せればと考えたからです。
今回からは『草枕』のヒロイン・那美さんがどのように「見立て」られているのかを具体的にみていこうと思います。
那美さんの「見立て」
二章序盤、峠の茶屋の婆さんを数年前に観た能『高砂』の媼(おうな)に「見立て」ている「余」ですが、同じ場面ではその婆さんと世間話をしつつ、写生帖を取り出して写生(スケッチ)をしています。そこへ、馬の鈴の音、そして馬子唄と聞こえてくると、スケッチをやめ、俳句を詠んで写生帖に書き始めます。
想像力をたくましくして句を詠んでいるところに、「那古井の嬢さま」の嫁入りの様子を語る馬子の源さんと婆さんとの会話を耳にして、その様子も俳句にしたりするのですが、「余」はある印象を残すことになります。
不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。
花嫁の顔を想像していて、ジョン・エヴァレット・ミレーの描いた絵画『オフィーリア』の面影を思いつくのですが、すぐに「これは駄目だ」とそのイメージをかき消します。ところが、そのオフィーリアが「水の上を流れて行く姿」の印象だけは残ってしまうのです。
「那古井の嬢さま」のことを婆さんに訊ねると、それは那古井に一軒しかない宿屋・志保田の嬢様のことで、その嬢様は「長良の乙女」と似ていると、その身の上話を聞くこととになります。
「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を咏んで、淵川へ身を投げて果はてました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
オフィーリアの「水の上を流れて行く姿」の印象と、二人の男性から求婚されたため入水して自ら命を絶った「長良の乙女」の話とが重なり、「見立て」が始まっているようです。
絵画『オフィーリア』は、[二], [三], [七]の章に登場していますが(第1回を参照ください)、「長良の乙女」はどうでしょう?
早速、『草枕』の「長良の乙女」を索引にしてみます。
索引づくり
次のような方法でピックアップしてみました。
・項目は、「長良の乙女」の挿話に関するもの
本文に記載されているもので、同じものを表している場合は1つにまとめました。
・機械的に抽出し、出現順に並べます
[]内は章番号です。
それでは、夏目漱石『草枕』に登場する「長良の処女」の索引をご覧ください。
索引 – 「長良の乙女」
長良の乙女 [二], [三], [四]
ささだ男・ささべ男 [二], [三], [四]
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも [二], [三], [四]
五輪塔、長良の乙女の墓 [二], [四]
那美さんの「長良の処女」としての見立ては、『草枕』全体を通してみられるものと思っていましたが、こうして索引にしてみると前半のみで中盤以降は登場していないのがわかります。
「菟原処女の伝説」
索引をつくるうえでも底本としている、夏目漱石『草枕』(岩波文庫、1990年改訂版)の注釈によると、この「長良の処女」の着想は、和歌集『万葉集』から得ているとあります。
夏目漱石が書き残した、明治三十九年の「断片」(三十五A)に書きとめられているのは、次の2つの歌です。
・日置長枝娘子(ヒオキノナガエガオトメ)歌(万葉集八 四十一)
・ 田辺福麻呂(さきまろ)「見菟負(ウナイ)処女墓歌一首并短歌」(万葉集九)
1つ目の歌からは「長良の処女」の名と「あきづけば」の歌を取り、2つ目の歌からは二人の男性から求婚されたため入水して自ら命を絶つ話を下敷きとすることで、「長良の処女」の挿話を組み立てているのがわかります。
なお、2つ目の歌の背景にある話は、奈良時代より摂津国菟原郡菟原での出来事として「菟原処女(うないおとめ)の伝説」と伝えられるもので、『万葉集』だけでなく、いくつかの古典にもその影響が見られます。
平安時代に成立した『大和物語』の147段「生田川」には、二人の男から求婚された乙女が生田川に身を投げることが描かれていますし、『源氏物語』の五十一帖「浮舟」にも、薫と匂宮の対極的な二人の板挟みとなり自ら死を決意する浮舟の姿が描かれています。
そして、能にもこの「菟原処女の伝説」を本説とする『求塚』があります。
西国から都を目指す旅僧が摂津生田で会った若葉摘みの女に求塚へを案内をしてもらうのですが、女は菟名日処女の墓である求塚について身の上のように語り、自分は二人の男の求婚に悩み入水した菟名日処女(うないおとめ)であると名乗る、という展開です。
能『求塚』は、流派によっては長年廃曲(上演されなくなった曲のこと)となっていたものですが、主人公の「余」が観たと語っている宝生流では廃曲になったことはないようです。岩波文庫の注釈にもありますが、夏目漱石は宝生流の謡曲に親しみ、『草枕』発表後には出稽古も受けてたそうです。
前回の夏目漱石『草枕』「能」と「松」編でもわかったように、『草枕』の本文中には、「能」そのものは三章以降には現れていません。
ところが今回、那美さんの「見立て」を通してわかったことは、能『求塚』のように、その背景(サブテキスト)には「能」が隠れているのかもしれないということです。
次回は
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
次回は、ミレーの描いた絵画『オフィーリア』を中心に、那美さんがどのように「見立て」られているか具体的にみていこうと考えています。
/三郎左
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?