ユートピアを捨てよ〜安彦良和『虹色のトロツキー』(1990年11月〜1996年11月)
昨年の終戦記念日前日、8月14日(土)のこと。WEB記事「朝日新聞DIGITAL」で、「日本の失敗の原因は満州から」というタイトルの漫画家・安彦良和氏のインタビューを読んだ。
安彦氏の言う満州国の建国大学(建大)設立を推進した人物の一人が石原莞爾である。『虹色のトロツキー』にもキーマンとして登場。1937年9月関東軍参謀副長に任命され、翌月には満州国新京に着任している。毀誉褒貶の激しい人物として知られるが、教科書的な説明は省く。
その石原莞爾には、『最終戦争論』と言う著名な論稿がある。1940年に、初版が『世界最終戦論』の書名で刊行されている。その後、加筆等を経ており、現在入手容易なのは『最終戦争論』にタイトルを変えた出版物と思われる。ちなみに、当方の手許にある本は中公文庫『最終戦争論・戦争史大観』(1993)で、底本は『石原莞爾選集3 最終戦争論』(1986、たまいらぼ刊)となっている。
『虹色のトロツキー』の背景として色濃いのは、石原氏が提唱するところの「新東亜秩序」構想である。
この構想については、歴史研究、評論など、既に言い尽くされた感があるものの、便宜上WEBに見られる要約の一例を見てみる。
なお、日本・満州国・中国の3国による秩序建設構想が、世界戦争を経て、八紘一宇による世界統一(世界平和)が実現される前提条件となっていることは押さえておく必要がある。
『最終戦争論』の内容の権威・影響力は決して小さくなかったものと思われる。しかし、歴史的意義の方は専門家諸氏にお任せすることにして、素人的に「ハテ?」と思ったところをいくつか。
石原氏は、最終戦争がもたらす破壊は単純なものではなく、建設的とも言えると述べる。
戦争で世界の人口が半分になっても、「大きく見ると」建設的なのだそうだ。
石原氏の世界統一観は、日蓮宗を背景としているとされる。中公文庫の五百旗頭真氏による解説は、石原氏に影響を与えたという田中智学の運動から説き起こし、次のように説明している。
普遍的真理の登場である。
石原氏は、同論の「第二部 『最終戦争論』日本関する質疑応答」の「第十四問 最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されていない限り現代人には了解できない。」の質問に対する回答を次のように記載しているが、これは果たして「回答」と言えるものであろうか。
石原氏によれば、「最終戦争」は必至である。
そして、「悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰」(上記中公文庫P44)なのである。世界平和の必要条件である東亜連盟建設。そしてまた、米州と決戦する東亜をつくりあげるには、アジア諸族の協調「五族協和」が必須となると言うのである。
石原莞爾が少々長くなってしまった。
世界平和を最終目標とした「八紘一宇」の精神を背景とした物語が『虹色のトロツキー』である。
1938年、満州国の首都新京(現・長春)に開学した建大は、石原莞爾の「信仰」を具現すべく、指導層を養成するための教育機関として始まった。
劇画作者の安彦氏は、日蒙二世の青年を五族協和の象徴的人物として設定し、第二次世界大戦開始直前の中国大陸、そしてノモンハン事件を描いていく。なぜトロツキーを取り上げているかは少々ネタばれ気味になるので、ここでは対ソ戦略上の話と述べるに止める。
満州国の悲劇は、歴史研究だけでなく、おびただしい数のノンフィクション、小説、ドラマ、映画などがある。当方の親類縁者にも多数の関係者がおり、幼少期から同国崩壊、引き揚げの悲惨を聞かされてきた。このような歴史を繰り返してはならないという教訓は、繰り返し語られてきている。
にもかかわらず、である。冒頭で引用したインタビューで安彦氏は、「その時代の主人公に視点を据えて描いていくと、誤解を恐れず言えば、『満州国』という存在も、ある意味『あり得た』という感覚になってきます。」と述べておられる。もし同時代に生きたならば、満州国は抗えない流れの中で生まれたものではないだろうか。後づけで歴史事象や人物・風潮を論評することには慎重であらねばならない。だから、「当時の人々が感じていたことをきちんとくみ取ることが、歴史を読み解くうえで必要です。」という安彦氏の姿勢は正しい。
さて、「抗えない流れ」とはどういうものだったのか。歴史については慎重に述べるべきと言っておきながら、想像でものを言うのかと叱られそうだが、満州国は身近な歴史でもある。敢えて感想を述べると、流れの背後には暴力装置や権威主義といった「おっかないモノ」が控えており、その影響力が今以上に大きかったのであろう。石原氏は、暴力を行使し得る立場そのものにあった人物であるし、陸軍大学を優秀な成績で卒業、ドイツ留学時代には戦史研究も行っている。そのようなエリートを崇める風潮が現代よりも強かったとは言えないか。
しかしながら、その石原氏の主張は、これまで少し触れてきたように、論旨展開と言うより信仰告白に近い。それでも、そういう個人的な見解が暴力や権威をまとい、右翼運動や世情と一体のものになると、雪だるま式に大きな流れとなってしまうところに怖さがある。
エール大学教授・朝河貫一は、『日本の禍機』(1909年)の「前篇 日本に関する世情の変遷」の冒頭、こう切り出している。
「ことに一国内の輿論は霊妙不可思議の圧力あるがゆえに、これがために思想行為を束縛せられざるものは賢者といえども稀なり。」と述べるように、霊妙不可思議な圧力による束縛に逆うのはかなり難しいのである。
しかしながら、まさしく結果論ではあるものの、満州国崩壊の悲劇を今一度思い起こすとき、王道楽土の幻想は棄てなければならなかったということが痛感されるのである。ユートピアを建設したいという誘惑は、克服されなければならなかったのである。
満州国建国より30年前、日露戦争が終わって間もなく、早くも朝河は警鐘を鳴らしている。