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禁物

 日頃本のことばかり呟いていることもあって、ときどき本にまつわる質問を頂戴する。
 その中で、うーん……と口籠ってしまうのが、「どうすれば効率的に本を読めますか?」系の質問だ。
 私はこう問われたとき、二つの文章が頭を駆け抜けていく。

①私は効率的に本を読めていない。
②私は効率的に本を読もうと思っていない。

 これをそのまま相手にぶつけたら、ただただ嫌な奴になって終わってしまうので、言葉を足したい。

 そもそもどうして、質問者さんが読書に効率性を求めるかというと、読書と同等の、もしくは読書以上に、したいと思っていること、しなくてはならないことを抱えているからだ。人生は有限であるので、読書に割ける時間も限られてくる。効率性が求められるにいたるのは当然の流れだ。
 私がなぜ読書に効率性を求めることが(ほとんど)ないかというと、ここでいう「したいと思っていること、しなくてはならないこと」が極端に少ないからではないかと思う。人が友人たちとお酒を飲んだり、長期旅行に出かけている間、私はいろいろな場所で本を読んでいる。
 であるので、私は読書に効率性を求めること自体に、否定的ではない。

 ここで文章を閉じれば、好印象で終わるのかもしれないが、もう少しだけ。次に一つ、文章を紹介したい。

「小説の力を過大評価したり、不当に美化したりは禁物だ。そして実際、小説になにか特定の役割を求めることに対して用心しなくてはならない。美術評論家のデイヴ・ヒッキーはこのことを書いているーー芸術がなにをすべきかということを言うと、反動的な体制側が芸術はそうしなくてはならないと言いだすようになり、やがて作品がそうではない芸術家を黙らせることになる、と。
 言いかえれば、私たちがミカン箱の上に立って、万人にとっての効力を説いて小説賛美を歌いあげれば、現実にはその自由を狭めていることになる……。」
秋草俊一郎・柳田麻里訳『ソーンダーズ先生の小説教室』フィルムアート社、P574)

 読書における効率性を考えたときに、何を読んで何を読まないかの話が当然出てくる。そこで一番にあがってくる指標は、「どう役に立つか」であろう。
 本が何かの役に立つことを無碍に否定しようとは思わないが、こと小説に関してだけは、ぜひ役に立つ/立たないを気にせず読んでほしい。 
 「この一冊だけを読んでおけば大丈夫」といった謳い文句も、小説には不要であると思っている。確かにものによっては、この一冊でもってある国ある時代の文学の骨格を摑める、といった小説はあり、そういう観点で読書を進めていくのは面白くもある。ただ、国も時代も代表していない、何百頁にもわたって理解不能な活字の洪水が襲いかかってくる作品を味わえるというのも、小説の醍醐味である。
 いっそ、書店の棚の前で目を瞑って、パッと一冊引き抜いた本を読む、でも全然構わないと思う。
 お試しあれ。



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