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昭和的

 「平成生まれ」であることは、これまで「若者」であることの証のように扱われてきたが、これからは、というかすでに、そうではなくなってきている。
 例えば、平成元年生まれであれば、三十代も後半に入っている(2024年時点)。現代の長寿社会においては、三十代なんてまだまだ若者だよ、という指摘もありうるだろうが、一方十代の頃の自分に三十代がどう映っていたかといえば、控えめに表現しても「お兄さん」、ストッパーを外せば「おじさん」であったと思う。

 「平成生まれ」という言葉の今後の成り行きを考える際、すでに一定の意味合いを帯びている「昭和生まれ」という言葉に目を向けてみることは重要だ。

「「昭和的な人」とは、要するに時代遅れの見当はずれ、手仕事的センスの汗臭い人という意味だが、そのとおりだと思う。昭和が去って、すでにひと世代以上の時間が過ぎた。昭和人は中老以上の大群と化しつつあり、間もなく無用の存在となるのだろう。」
関川夏央『砂のように眠る 私説昭和史1』中公文庫、P339)

 引いたのは、作家・関川夏央が、自身の著作に付した解説からの一節。
 ここでは、世間における「昭和的」なるもののネガティブなイメージが語られている。当人が「昭和生まれ」ということもあり、若干自嘲気味な部分もあるが、実際にこういうイメージが浸透していることは間違いない。
 ではここで、「平成的」なるものが帯びているネガティブなイメージについても考えてみたい。私が思うに、「平成的」が否定的なメッセージの中で用いられる場合には、その比較対象として「昭和的」なるものが持ち出されてくる可能性が高い、とみている。ここでは「昭和的」はポジティブなものとして扱われる。
 一平成生まれの私の実体験から、一つ実例を考えてみると、「自主性・能動性の有無」がまず思い浮かぶ。「平成生まれ」であることを伝えただけで、上の世代から、「今の若いやつは自主性がない」と言われたことが何度もある。ここまで直接的ではなくても、「今の若いやつは元気がない」と言ってくる人は、大体同じようなことを伝えたいのだろうなと、言われた側は思う。
 この場面で、「昔の若者は元気だった」という話が展開されるとき、ここで想定されている「若者」というのは、間違いなく「昭和的な人」だ。関川の言う「手仕事的センスの汗臭い人」というのは、その「自主性」において、ポジティブに受容される場合もある。

 個人的には、「昭和生まれ」と「平成生まれ」という言葉が対立的に用いられる将来は望まない。当たり前なことだが、どの世代に生まれたかという一点をもって、相手の性質を断ずるようなことは避けたいと思う。




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