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期待と失望
巷で目にする「若者」論には、日々うんざりさせられる。
「若者」論の特徴は、上の世代が主張していきたい内容に合う形で、現今の若者像が作り上げられていくところにある。例えば、「環境問題に強い関心」といった点から「いまの若者は意識が高い」と評されることもあれば、「政治的無関心が顕著」といって「いまの若者は意識が低い」と非難されることもある。これは、現今の若者が相反する特徴を有していると捉えるよりも、上の世代が見たいと望むものを、若者に投影した結果であると見ていい。
若者はつねに、勝手に期待され、勝手に失望される。
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最近、『「若者」とは誰か』という本を手に取った。本書の中で、著者の浅野智彦は、これまで展開されてきた「若者」論の問題点を指摘している。次に、該当箇所を一部引用してみたい。
「若者は社会の変化の先端にいるものと考えられており、「新しさ」と結びつけて捉えられてきた。若者を論じる人々は、今の若者のどこが新しいのか、どのように新しいのかについて様々に語ってきたのである。時評的な語りの発する強い魅力はこの「新しさ」にあったと思う。けれども数十年にわたってそのようなことを続けてきて、今日、新しさを論じること自体が新しくないものに感じられるようになりつつある。若者論における「新しさ」の追求はいわば飽和状態に達しつつある。」
(浅野智彦『「若者」とは誰か アイデンティティの社会学』河出書房新社、P4〜5)
この指摘を踏まえた上で、改めて巷の「若者」論に触れなおしてみると、色々と味わい深いものがある。
「新しさ」を強調することに熱心になるのは、当然といえば当然で、もし「新しさ」のカケラもないのであれば、わざわざ「〇〇世代」と名前までつけて、新たに論じていく意義さえ失ってしまう。
『「若者」とは誰か』を通しての気づきとして、若者はいつまでも若者ではない、というものもあった。ある際立った特徴を有しているとされていた若者世代が、その後、年を経るにつれて、どうその有り様を変化させていくのか。社会状況や時代状況の影響を受ける過程で、もはや他の世代と違いのない集団に落ち着いていく場合もある。
このことに意識的であれば、そもそも若者に過剰に期待したり失望したりする前に、彼らの今後を左右する社会状況や時代状況、その方向性を決めていくことになる大人の側の責任に、考えがいたることになる。叱咤する対象を間違えてはならない。
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