見出し画像

役終本

 優れた本の特徴として、よく用いられる言葉がある。
 アクチュアル。いまを生きる我々が、臨場感をもって読むことができる本。「数百年前に書かれた本とは思えない。学ぶべきところが多くある」といった感想は、対象の本が「アクチュアル」であると評価されたときに口にされる。ざっくり言ってしまえば、この本は全然古びていない、ということだ。

 アクチュアルな本、について考えるとき、私がよく頭に思い浮かべる言葉がある。それは、漢学者・諸橋轍次が、荘子の思想を解説したの中で取り上げていたものだ。

「徳川の中葉漢学の全盛期を迎えました時、国学の四大家、就中本居宣長、平田篤胤の二先生は、声をからして叱呼し、時人の唐様にのみ走らんとした迷夢を破ることに力めました。その国学樹立の功績は極めて大きいのでありますが、しかしあれだけの大家の論ではありますが、言葉だけを考えてみますと、平心の論とは思われぬものも往々見当るのであります。これなどはやはり自説に忠なるのあまり、時弊を救わんとする熱情のあまり、矯飾の語を弄されたのでありましょう。そこで私どもとしてはこれらの語句に接したとき、ただ先人の世を済わんとする熱情に敬意を表しておればいい。」
諸橋轍次『荘子物語』講談社学術文庫、P76)

 数百年、数千年単位で読み継がれている作品というのは、上記にある「矯飾の語」の含有率が低めなのではないか、と思うことがある。
 刊行当時の時事問題に特化して、その解決策を提示していく本よりも、抽象度の高い話題(例えば、愛、生死、国家など)を抽象度高めに分析していくものの方が、どうしても内容的には古びにくくなる。読者の側も、自身の置かれた現状と重ね合わせて読むことが容易になる。

 ここで考えたいのは、「矯飾の語」が多く、結果的に古びてしまった本の価値というものをどう捉えるか、という点である。
 私はこういった本を、勝手に「役割を終えた本」、略して「役終本(やくおえぼん)」と呼んで、チェックしてきた。きっかけは、古書店や古本まつりに通う中で、そういった本をちょくちょく目にする機会があったからである。
 「役終本」の存在が、私たちに示してくれるのは、人類は着実に問題を解決してきたということである。逆に言えば、数百年、数千年単位で読み継がれている本の存在は、その中で指摘されている問題が、数百年、数千年間未解決のままであるということだ。
 我々がある書籍を前にして、「数百年前に書かれた本とは思えない。学ぶべきところが多くある」と感嘆の声をあげるとき、そこでは同時に、自身を含めた人類に対する、呆れと反省の溜息が漏れてしかるべきなのだ。




※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集