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大衆
映像作家・松本俊夫に「大衆という名の物神について」(『映像の発見』1963年12月刊収録)という論稿がある。
「トランプの切り札のように便利に使われる言葉のひとつに、大衆という言葉がある。
大衆にはわからない、大衆のなかに入れ、大衆に学べ、大衆の立場に立て、大衆のために作れーーたとえばこういう一連のいいまわしが、まるで呪文をとなえるように濫用されるのは、その一例である。そのとき、大衆という言葉はあらゆるものごとを測定する絶対の処方箋とされており、すでに大衆の実体から遠く遊離して、実は抽象化された観念にすぎなくなっている場合が多い。しかし大衆自身は自分を主張しようとするとき、このようないい方をあまりしない。」
(松本俊夫『映像の発見』ちくま学芸文庫、P265)
文章が帯びる、書かれた年代特有の熱量に、若干の共有できなさは感じるものの、示された問題意識自体は古びていない。
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こういうnoteの記事を書き始めてしまっていることからも明らかなように、私は何か物事を考える際に「大衆」という言葉を用いることがある。
それはいつからなのか、ピンポイントに特定するのは難しいが、少なくとも能動的に本を読み始めた時期、つまり大学入学後ではないかと推察はできる。
本を読み始めることが、どうして「大衆」という言葉を用い始めることとリンクするのか。まず、私がその時期に手に取っていた新書・人文書の類いが、漏れなく「大衆」という言葉を当然のように用いていたこと。読み進めれば読み進めるほど、私もその前提に順応するようになり、いちいち「大衆ってそもそも何?」と疑問を抱かなくなっていく。
ここでの順応は、特定の本の内容について議論する場合に限らず、ぼーっと考え事をする日常の一時にも染み込んでくる。今抱いている個人的な悩みは、果たして個人の事情のみに起因する悩みなのだろうか。社会状況にも原因があるのではないか。そういう問題意識から、社会を客観視しようと試みたとき、その対象としての「大衆」が浮かび上がってくる。
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松本俊夫は別の箇所で、「大衆」という言葉を使いたがる人々の特徴として、「自分を大衆の指導者と思いこんでいる」というのをあげている。私の意見としては、確かにそういう人も一定数いるのかもしれないが、社会の動向に対する違和感、そこから生じる疎外感を経験した人が、自身の置かれた状況を整理するために用いらざるをえなくなる言葉。それが「大衆」なのではないかと考える。
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