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メリハリ
本を読み続けることの利点は、定期的に「死」について考える機会を持てることだ。
「死」を考えることは、お世辞にも快適な行為だとは言えないが、自分の生活を見つめ直す上で、これほど便利な事象もない。
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最近手に取った本に、次のような記述があった。
「死とは(生活世界から)最終決定的に離脱することであるが、自分の死に関する予期もまた、私が相互主観的な世界のなかに存在していることから生じてくる。他者たちは時を経て死んでいき、世界(とそのなかの私)は存在し続ける。私が時を経るということは、まさしく私の根本的な経験のひとつである。私は時を経るだろう、したがって私は、自分が死ぬだろうこと、そして私が死んだ後も世界は永続していくであろうことを知っている。」
(アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン著、那須壽監訳『生活世界の構造』ちくま学芸文庫、P122)
自分もいずれ死ぬのだ、という現実を、もっとも痛感させられるのは「他者の死」である。年齢を重ねることについても同様で、記憶の中ではまだまだ幼かった子どもが、再会時に体格の良い青年に成長しているのを目にして、「歳も取るはずだわ」と呟いてみたりする。
他人も私も、皆同じように歳を取っていく。この前提のもと、社会は動いている。
「私は、自分の持続には限界があることを知っている。こうしたことから、自然的態度のレリヴァンス体系が派生してくる。それは、希望と怖れ、欲求と充足、チャンスとリスクとが相互に多種多様に織り合わさった体系であり、そしてそれが人びとを、自分の生活世界と折り合いをつけ、困難を克服し、プランを企図し実行するよう仕向けるのである。」
(アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン著、那須壽監訳『生活世界の構造』ちくま学芸文庫、P122)
人生に「死」という限りがあるからこそ、私たちは日々の生活に、ある程度メリハリをつけることができる。
志望校合格のために受験勉強に明け暮れる学生さんや、明日の会議のためにプレゼン資料をまとめている会社員だけが、タイムリミットに追われているわけではない。ソファーでくつろぎながら、ぼけーっとNetflixを見ている人であっても、「人生」という制限時間の只中にある。「こっちはくつろいでるんだから、余計なこと言うな!」という阿鼻叫喚が聞こえてきそうだが、これは現実だ。
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人生に限りがあることを憂いて、不老不死を夢想する人もいる。もし仮に実現するようなことがあれば、我々の生き方は大きく変容することだろう。
先程私は、「皆同じように歳を取っていく」という前提が、現今の社会では共有されていると述べた。そうであれば、おそらく不老不死が実現した社会では、「皆同じように生き続ける」という前提が要求されるだろう。友人・知人が次々と亡くなっていく中で、自分は死ぬことなく生き続ける。この孤独な状況に、耐えられる人は少ない。
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