見出し画像

辛い

 数年前、家庭教師の仕事で通っていたお宅で、晩ご飯をご馳走になったときのこと。「いっぱい作ったのはいいんだけど、息子が食べてくれないから」とのことで、ご両親お手製のキムチをいただいた。
 程よくピリッとしていて、白米に合う。「美味しいです」ともぐもく食べていると、ある視線がこちらに向けられていることに気づく。
 よくそんなもの食べるね、と言わんばかりの生徒さんの不愉快な表情。「美味しいよ」と声をかけたが、「いらない」とバッサリ。
「先生、どうしてわざわざつらい思いをして、キムチ食べるの?」
 こっちは露ほどもつらい思いはしていないが、辛いものが苦手であれば、そう感じる可能性はある。
「つらい、って漢字で書いたら、からい、とも読めるんだよ。やっぱり、おかしいよ、食べるの」
 た、たしかに。言われてみれば、そうだ。なかなか鋭い。やるな。
 一人感心しつつ、不躾にも二杯目のご飯に進んだ。

 このエピソードは、私の頭の奥の奥の奥に埋れてしまって、最近は過ぎることさえなかったものの、ある本の読書中に、ふと「そんなこともあったな」と思い出すことになる。

「程度の差はあるだろうが、人は誰しも快感を得るためにいくらかの痛みが生じる活動を求めるものだ。それは辛いものを食べたり、激しいマッサージを受けたりすることかもしれないし、自分に身体的・精神的苦痛を与えるような性行為、あるいは水風呂や熱湯風呂に入ったりすることかもしれない。重要なのは、それが「安全な脅威」であることだ。私たちの脳は、その刺激は痛みを引き起こしてはいるが、結局は危険をもたらすものではないと了解する。」
モンティ・ライマン著、塩﨑香織訳『痛み、人間のすべてにつながる』みすず書房、P141)

 快感を得るために、いくらかの痛みを……冒頭部分だけを読むと、「自分はそんな活動してるかな?」と具体例が頭に浮かんでこなかった。ただ読み進めると、辛いものを食べる、水風呂・熱湯風呂に入る、と比較的好きな活動がそれに該当することを指摘されて、言われてみれば、と納得した。
 子どもの頃、親に銭湯に連れていってもらった際、狂ったように熱湯風呂と水風呂を行き来していたのを覚えている。心地よいなんてことはなく、「痛い」に近かったが、そこから生じる「スリリング」は子どもにとって魅力的だったのだろう。

 上記の引用文を一読すると、改めて生徒さんが口にした「つらい、って漢字で書いたら、からい、とも読めるんだよ。」が鋭い指摘であったことに気づく。生徒さんとは今でも時々顔を合わせることがあるから、今度会ったとき「こんなこと言ったの、覚えてる?」と訊ねてみたいと思う。




※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集