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年賀状

 年始の買い物からの帰り、自宅のポストを覗くと、2枚のハガキが届いていた。
 普段はあまり届かないため、「何だろう?」と中身を確認してみると、年賀状だった。
 年始にハガキなら年賀状に決まってるだろ。そんな指摘が聞こえてきそうだが、それだけ私は年賀状と無縁の生活を送っている。
 真面目に送っていた時期もあった。ただそれも五年以上前のことだ。

 差し出し人を見ると、家庭教師時代から付き合いのある家族と、韓国語の講義でお世話になった先生、の名前があった。
 前者は分かるとして、不思議なのは後者である。かつて私の方から、先生に年賀状を送ったことがあったが、それも一度きりで、その後数年間やり取りはない。
 なぜ送ってきたのだろう。そう思いつつ、裏面に目を向けると、写真印刷にメッセージが添えてあった。
 写真には、先生とツーショットでうつるウサギの姿がある。メッセージは手書きで、そこにはウサギの名前も示されていた。おそらくペットだろう。

「まさか、このウサギさんを見せたいがために……」

 邪推である……とは言い切れない。

 ここで一つ、気づいたことがある。それは、メッセージが「手書き」であることの効果だ。
 メッセージ自体は、軽い新年の挨拶と、ウサギの紹介だけで、大した内容ではない。ただ、それが「手書き」であることによって、不思議な温かみをそこから感じ取ることができた。

 ゼロではないけれど、年々人の「手書き」の文を読む機会が少なくなっている気がする。目にするほとんどが、印刷された文字、つまり「活字」だ。
 そんな中、「手書き」であるということで、一つの価値が生まれている。「手書き」がスタンダードだった時代には、考えられない変化である。

「活字も人がつくるものだから人間的であたたかく美しいものがよいのであるが、世の中のありとあらゆる事象を記し、数多く読まれるためのものとして、記号としての活字は、個人の心や手のなまなましい跡を見せないものの方が、すがすがしいあり方だと思う。」
篠田桃紅『その日の墨』河出文庫、P201)

 引用したのは、書家でエッセイストの篠田桃紅(しのだ・とうこう)が、「活字」について述べた文章である。
 「手書き」の文字には、筆者の温度が感じられるが、それはときに情報を相手に伝えるという、本来の文字の機能に障る場合がある。
 一方「活字」は、個人の温もりを発しないかわりに、万人に情報を伝えるという役割を正確に遂行する。

 年賀状のように、個人間で、簡単な挨拶やメッセージを送り合う場合には、自身の情感を込められる「手書き」が、効果を発揮する。
 ここではあまり「活字」は活躍できないが、世にある多くの文書の中に、彼らのステージは用意されている。

 「手書き」と「活字」。意識して使い分けることができれば、少し生活を豊かにできるかもしれない。


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