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校正者

 ある作家の作風に心惹かれて、その人の全作品を漁っていく。この活動を「本」に当てはめたとき、その対象は必ずしも「著者」だけに限定されない。
 これまで色々な本好きに会ってきた中で、特定の装幀家・デザイナーが生み出した本を追いかけてきたという人は、想像以上に多い。
 よく耳にするのは、和田誠と真鍋博。誰が著者であるかは重要ではなく、とりあえず和田誠や真鍋博が携わっているのなら、買い求める。こういう熱心なファンに、私は三人ほど会ったことがある。
 一人目のファンから話を伺ったときは、私の方がそもそも和田誠と真鍋博を正確に認識しておらず、「へえ、そんな方が……」という反応をしてしまった。実はその時点で、すでに星新一の一連の作品を通して、彼らの仕事に触れていたわけだが。

 著者、装幀家に共通しているのは、彼らの仕事はきちんと形として残っているということである。なぜこんな当たり前の話をするかといえば、本作りに携わる人の仕事が、必ず読者が確認できる形で残るわけではないからだ。

「冷静沈着に緊張を保つ。一種の修行のようで、しかも校正は報われない。完璧に校正して当たり前。正しく直しても著者や読者には気づかれもせず、逆に間違いを見逃すとそれが印刷されて校正ミスの明らかな証拠となる。誰にも気づかれないところで労苦する。ことわざでいう「陰の舞」を踊るような仕事であり、それを支えるのは「義務」という観念なのだ。」
髙橋秀実『ことばの番人』集英社インターナショナル、P57)

 校正者の仕事は、きちんと完成品の中に反映されている。ただ、読者はそれを目で確認できない。いや、実際は見ている。見ているが、ピンポイントに「この箇所は、校正者の技が光っている」と評価することは難しい。
 引用文にもあるように、読者が校正者の仕事を意識するのは、紙の上に校正ミスを発見したときである。スポーツの審判が誤審のときばかり注目されるように、校正者は校正ミスをしたときに注目される。なかなか辛い仕事だ。
 少しでも報われるように……といったらおかしいが、できる限り本を読む際は、校正者の貢献を意識においておきたいと思う。





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