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視線

 フードコートでプレーンオムライスを食べていたら、どこかから視線を感じて、手が止まる。
 感じる方向に目をやると、ベビーカーに乗った幼子がこちらを見ている。
 目が合ったので、ぎこちなく笑いかけると、幼子も微笑を返してくれた。素晴らしい笑みに満足して、また食事に戻ろうとすると、幼子のいる方向から何かが飛んできた。摘み上げると、丸っこいカステラである。どうやら幼子が投げてきたらしい。
 あのーこれ飛んできたんですけど……と幼子の隣にいたお母さんに話しかけると、「あっ、ごめんなさい」との反応が。幼子に向き直り「また、投げちゃったの」と声をかけるも、幼子の方はニコニコしている。
 この笑顔があれば、何をしても許してもらえそうだ。

 フードコートで幼子とささやかな交流をしているとき、一つ頭に思い浮かべている文章があった。

「子供はいつでも自分が世界の中心に位していると思っている。大人たちのほうでも、こっそり語らいあって、それをそのまま認め、どんなに頑迷な人間も子供の前には頭をさげる。そればかりか、互いに薄気味がわるくなってくると、子供のところへ逃げて行く。誰もが子供に望みを嘱しているらしく、この子はただの一市民や一労働者ないしは凡庸な君主などになりはしない、人間的なものの新しい啓示を意味するようになるだろうと、ひそかに期待する。」
カロッサ著、国松孝二訳『指導と信従』岩波文庫、P7〜8)

 そう。そうなのだ。私があの幼子と対しているとき、そこに見ていたのは無限の可能性だった。この子の選択次第で、どんな存在にもなることができる、そう思えるような。
 赤の他人でさえこう感じるのだから、横に座っていたお母さんの期待度といったら、相当なものだろう。無限の可能性が花開くかどうかは、子育てのクオリティーに左右されると受け止めれば、期待度はプレッシャーを生むことにもなる。

「乳呑児の薄明の中から生い出ていく子供は、自分の成り出てきた共通普遍の世界素材が、危険にも、とっくに自分とはかけ離れたものに変わってしまっていることを知らない。あらゆるものにほほえみかけ、同情も恐怖も知らず、人間や動物の輝く目に手を差しのべる。」
カロッサ著、国松孝二訳『指導と信従』岩波文庫、P7)

 私と目が合ったとき、幼子は何を感じていただろう。「うわっ、なんかおっさんが笑いかけてきた。気持ち悪ッ」と感じつつ、穏便に済ませるために軽く微笑み返す。……そういう計算がなされていなければいいが。



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