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善意の噓
人間生きていれば、相手のことを思って、あえて噓をつくことがある。
例えば、父親が晩ご飯に肉じゃがを作ったとしよう。肉じゃが作り初挑戦ということもあり、気合いが入っている。
一口、二口食べてみた感想は、不味くもないが、かといって旨くもない。「どうだ、美味いか?」という質問が飛んでくる。
このとき、素直に「不味くもないが、かといって旨くもないね」と答えるのは憚られる。どう頭を巡らしても、そう答えるメリットが見当たらない。気まずい空気が流れて、終了である。
精一杯余白を残して、「いい感じ」と答える。旨い、と言い切ってしまうより罪悪感は薄まるが、噓と言われれば噓に変わりはない。
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以上述べてきた噓を、「善意の噓」と呼べるとすれば、この噓は生きていく上で必要なものとして、許容されうるのだろうか。
この点を考える上で、大変参考になる一冊がある。次にその中の一節を引用してみたい。
「相手の利害関心を一つに切り詰めずに、さまざまな利害関心をもつ一人の人として尊重する時、噓を言うために開く口は重くなります。すると逆に、噓をつくことは相手に対する尊重を欠いているという原則は、善意の噓にもあてはまりうるということでしょう。」
(池田喬『「噓をつく」とはどういうことか』ちくまプリマー新書、P141)
こういう噓をついておけば、相手は満足するだろう。ーー「善意の噓」を口にする人は、相手についてこう決めてかかっている。このとき、人は相手を対等な存在とみなしていないのではないか。
冒頭の父の手料理話でいえば、「とりあえず旨いことが伝われば満足するだろう」と、噓をつく側は決めてかかっているということになる。
もちろん大抵の場合、人が他者に「どう、美味い?」と訊ねるときは、「うん、美味しいよ」と言われることを期待しているのは明らかだ。ただその一般論が、目の前の父親にも当てはまるかどうかは分からない。忖度なしのレビューを参考に、より味を極めていきたいと意気込んでいたりすれば、むしろ「善意の噓」などつかず、ストレートに感想を伝えた方がいいということにもなる。
今後も生きていれば、咄嗟の判断で「善意の噓」を口にしてしまうこともあるだろうが、「実際に相手が何を望んでいるかなんて、分からないよな……」と反省することを忘れないようにしたい。
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