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それぞれ

 生活空間を確保できなくなる。そのレベルにまで至らなければ、蔵書はいくら増えても構わない、と思うようになった。

 自由に使える時間がある。でもお金はない。仮にお金はあっても、わざわざ人混みに行こうとは思わない。
 こういう習性をもつ友人・知人が、我が家には集まってくる。集まってくる、といっても、複数人でガヤガヤ騒ぐ、なんてことにはならない。友人と私、家には大抵二人しかいない。
 訪問して何をするのか。話すか、本を読むか。前者には、他人の存在が要る。後者には、他人は必要ない。本を読むのに友人宅を訪ねる必要があるのか、そう疑問に思う人もいるだろう。

 ときどき本を読みに来る友人に、この話題を振ったところ、面白い反応があった。本好きらしく、一冊の本から一つのエピソードを持ち出してくる。

「どんな環境がたのしく思えるかと、いつか人に聞かれた時すきな友だちと一しょにいて、それぞれ本を読んでいるというような情景が心にうかんだ。どうしてこういうことになるのかと考えてみると、私が聴覚的でない上に、頭の回転が人なみはずれてのろく、何をするにも考えこまなくてはならないからではないかと思う。」
石井桃子『みがけば光る』河出文庫、P154)

 まさに、これができているーー友人が満足気に、こう口にするのを目にして、少しホッとする。
 たまには、おもてなし風の何かをするべきではないか。そう思いながらも、実行できずにきたことへのモヤモヤ感が、一気に解消された。

 人間関係の濃度・深さは、相手と何かをしているときではなく、何もしていないときに明らかになる、というのが私の持論だ。
 関係性が浅い人と二人きりでいると、沈黙の間が耐えられなくて、余計に話してしまったりする。余裕がない。ある程度関係性が深まると、話す・話さないどころか、互いに別々のことをしていても、大して気にならなくなる。
 上記の石井桃子の例には、言葉を交わさずとも、安心して場を共有できる人間関係が前提としてある。各々が黙々と「読書」に耽る。その時間をともに過ごせるだけで、楽しい気持ちになれる。

 友人の一人が、我が家でそういう時間を過ごせているのだと考えると、シンプルに嬉しい。今後も我が家を、快適な読書空間になるよう磨き上げていきたいと思う。



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