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正常

 人の生き方に、正常とか異常とかあるのだろうか。そんなことを時折考える。

 ある読書会を通して知り合い、今でも不定期でご飯を食べに行く女性の友人がいる。彼女はある時期から、自身の夢の実現のために転職を考えている、という話をするようになり、その将来設計の内幕を語ってくれた。
 ざっと聞くだけでも計画が念入りであることが分かり、熱量も伝わってくる。これだけの才智と熱心さがあれば、順調に進んでいくのだろうな、とさして心配もしていなかった。

 ところが、それから数ヶ月間、彼女から動く気配が感じられなかった。「転職活動進んでる?」とダイレクトに訊くのもあつかましいと思い、今度食事をする機会があったとき、相手から話し始めたら、じっくり聞こうと決めた。
 次の食事の場で、彼女は転職活動が滞っている理由を話してくれたわけだが、それは意外な内容だった。転職をすること自体が不安。順調にやってきた人生から脱線してしまう気がして、と。
 ここでの”脱線”という言葉が、ギーンと耳の中で響く。
 おそらく彼女の頭の中には、同世代の人間であれば、こういう段階を踏んで生きていくのが一般的だよね、という一本の道が想定されており、「転職」というのがそこから”脱線”する行為であるように感じられていたのだろう。彼女は「正常でなくなるのが怖い」とも語っていた。
 当時、自分自身は、すでにこの一本道から外れているという感覚があったので、「そういうことで、悩むこともあったな……」と半ば懐かしい気持ちになっていた。ただ、「したいこと」と「できること」に乖離がある私のような人間とは違って、彼女には才智と熱心さがある。そんな彼女を踏みとどまらせるのが、正常でいられるかどうか、という非常に曖昧なものであったことには驚かざるをえなかった。

「現代の要求する「正常さ」には、ある非情な、さらには異常なものがないであろうか。そうして、「自分は正常だろうか」とつぶやく現代人のつぶやきの中に、その非情さに圧倒されそうになっている、受け身の姿勢が反映していないであろうか。」
中井久夫『働く患者』みすず書房、P12)

 引用したのは、私が大学三回生のとき、一本道から”脱線”する勇気を与えてくれた本の一節である。
 いま君の行動を縛っているものは、本当に守るに値するものなのか。君が考えている「正常」なるものは、ただのイメージではないか。そもそも、君が「正常」であるかどうかを、いちいち気にしている他人などいるのか。
 中井久夫の指摘は、こういう問いかけに満ち満ちていて、私はそこから鎖から解かれたような解放感を得た。
 もし今でも、”脱線”することなく、一本道を歩むことにこだわっていたとしたら、どうなっていただろう。少し想像するだけで、胸が苦しくなってくる。




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