難題
京都駅を利用するたびに、思うことがある。この構内を行き交う誰一人として、自らの手で人生をスタートさせた人間はいないという現実を。
どの時代に生まれ、どの地域に生まれるか、そしてどの家庭に生まれるかさえ、自分で選択することはできない。与えられた一つの「偶然」を、引き受けて生きていくしかない。
京都駅内にて、私の前を通り過ぎていく人々は、少なくともその一時について、偶然から始まった自身の人生を受け入れている。ここで「少なくともその一時について」なんていう言葉を付け加えたのは、私の視界から外れた瞬間、やはり受け入れたのは間違いだったと、自身の人生を放棄する人がいないとも限らないからだ。
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偶然始まったことに戸惑いつつ、気づけば手離したくないものに変わっている。この「人生」の摂理を、見事に歌い上げた詩がある。
引用したのは、中国清代の詩人・袁枚(えんばい)の「書懷(懐を書す)」という五言古詩である。
最初の四行は、冒頭から話してきた人生の偶然性についてだが、注目すべきは五行目以降。袁枚の視点は、すでに死んでしまった存在や、いまだ生まれてきていない存在に対しても向けられ、最後は人生における「生死」の問題を、余計で厄介な難題だ、と嘆いてみせている。
この嘆きには共感しかない。一つの慰めは、誰もこの難題に完璧な解を見出せないまま、人生を終えていくことだろう。
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