見出し画像

難題

 京都駅を利用するたびに、思うことがある。この構内を行き交う誰一人として、自らの手で人生をスタートさせた人間はいないという現実を。
 どの時代に生まれ、どの地域に生まれるか、そしてどの家庭に生まれるかさえ、自分で選択することはできない。与えられた一つの「偶然」を、引き受けて生きていくしかない。
 京都駅内にて、私の前を通り過ぎていく人々は、少なくともその一時について、偶然から始まった自身の人生を受け入れている。ここで「少なくともその一時について」なんていう言葉を付け加えたのは、私の視界から外れた瞬間、やはり受け入れたのは間違いだったと、自身の人生を放棄する人がいないとも限らないからだ。

 偶然始まったことに戸惑いつつ、気づけば手離したくないものに変わっている。この「人生」の摂理を、見事に歌い上げた詩がある。

「我不樂此生
 忽然生在世
 我方欲此生
 忽然死又至
 已死與未生
 此味原無二
 終嫌天地閒
 多此一番事
(我 此の生を楽しまざるに
 忽然として 生まれて世に在り
 我方に 此の生を欲するに
 忽然として 死の又た至る
 已に死せると 未だ生まれざると
 此の味 原と二なる無し
 終に嫌う 天地の間
 此の一番の事 多きを)」
松浦友久『中国名詩集 美の歳月』ちくま学芸文庫、P62)

 引用したのは、中国清代の詩人・袁枚(えんばい)の「書懷(懐を書す)」という五言古詩である。
 最初の四行は、冒頭から話してきた人生の偶然性についてだが、注目すべきは五行目以降。袁枚の視点は、すでに死んでしまった存在や、いまだ生まれてきていない存在に対しても向けられ、最後は人生における「生死」の問題を、余計で厄介な難題だ、と嘆いてみせている。
 この嘆きには共感しかない。一つの慰めは、誰もこの難題に完璧な解を見出せないまま、人生を終えていくことだろう。




※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集