在野研究一歩前(30)「読書論の系譜(第十五回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)②」
前回は、『普通學獨修指針 一名 普通學大意』について、その執筆者と執筆目的を確認した。今回はその中から、「第四章 讀書作文法 第一節 讀書法」を取りあげて、簡単な解説を行ないたいと思う。
*
「讀書は智識獲得の手段にして何の學科を問はずこれを獨修せむとするには讀書を唯一の方法とすされど書籍の撰擇に心を用ゐず妄りに讀み漫りに繙く時は終に何の得る所もなきことあるなり西哲エマーソン曰く其利用せらるヽ時は書物は最良の者なれど若し誤用せられたらんには書物は最良のものなりと支那の先賢も悉く書を信ずれば書なきに如かずと云はれき尤も注意すべきことにこそ。吾人は以上數節に於て參考書を一々に指摘し來りたれば聊か讀者に撰擇の標準を與たりと信ず、今はただ古人か書籍の撰擇に關して教示せられたる二三の格言を擧げて已まん、」(P58)
⇒まず、読書は、あらゆる分野を「独学」する上で最良の手段であると言える。しかし、そこでの「最良さ」を機能させるためには、「何を読むか」という「書籍の撰擇」が問題になってくる。何も考えず、ひたすら本を読み続けることは、時に何物をも生み出さないかもしれない。このことは、西洋のエマーソンや、東洋(支那)の賢人たちも指摘しているところである。
そこで、加藤熊一郎は「第四章 讀書作文法 第一節 讀書法」という項を設けて、「書籍の撰擇」時に関する意見を示すことにしたのである。それでは次に、具体的な「意見」について見ていきたい。
「唐彪曰く當に讀むべきの書あり、當に熟讀すべきの書あり當に看るべきの書あり、細看すべきの書あり必らず備て以て査考に資すべきの書ありと一應讀過して已むべきの書は購はでも事濟めば再三細看すべきの書備て以て査考に資すべきの書は能く撰擇してこれを左右に置くべし世には新刊と云へば如何なる著述にても購ひ讀みて果ては蠧魚の腹を肥し自らも亦た蠧魚となりて理解の力なくただ讀むのみにて實際の活用なきには至るなり、これよりは善良の書を幾回も讀みかへすを要す、かくすれば最初は解すべからざりし意味も其の中には明瞭となり智識に混乱の憂なく書中の記事を咀嚼して自己の物となし得べし、プルーターク曰く飽食の害は飢饉より甚しきものなり多讀の書も亦た然りと眞に其の弊を看破せりと云ふべし、」(P58~59)
⇒今回の引用部分では、まず「唐彪」の言葉が紹介されている。「唐彪」は、清朝期に活躍した評論家で、「読書作文」「父と子の法則」などの著作で知られる。
「唐彪」は語る。書にはその内容の違いとは別に、「向き合い方」でも違いが生じる。ざっと目を通して済ませても構わない書もあれば、じっくりと何度も読み込むべき書もある。各々の書の特徴を踏まえた上で「読書」に取り組むことが大切である、と言える。
世間には「新刊」と言うだけで、重宝したがる人がいたり、なんら書籍を選擇することなく、読み漁ることに満足を覚える「蠧魚」(しみ)の如き人間もいる。ただこれらの人は、書籍の内容についての理解が乏しいことが多い。
理解が充分でないと、読書によって得られた知識を正しく活用することはできない。そのため、読書においては「熟読」を心掛けるべきである。「熟読」を軽視して、「多読」を重視するならば、(プルタークも指摘するように)「読書」の効能が十分に発揮されないだろう。
今回はこれまで。
次回は「在野研究一歩前(31)「読書論の系譜(第十六回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)③」です。
お読み頂きありがとうございました。