火遊び
年始、実家に帰省しなかった友人が、家に遊びにきた。二人でのんびり、餅でも食べながら駄弁ろうということになる。
机の上にカセットコンロを出し、ボンベをつける。試みに操作つまみを回し、火をつけた。
「あぁ、久々に火ィ見たわ」
呟いた友人の顔をまじまじと見る。
「うち、IHコンロだから。ていうか、この家もそうだろ」
友人はそう言って、キッチンの方を指差す。私はそれを目で追う。そうか……自分も直で火を見るのは久しぶりかもしれない。
普段煙草を吸う人であれば、ライターやマッチを通して、火を見るタイミングがある。だが、友人も私も、煙草を吸わない。
最後に火を見たのはいつだろう。コンロの火を見ながら、ふとそんなことを考えた。
*
餅をつつきながらの雑談は、人生で最初に火を目にしたのはいつか、という高尚な(?)テーマからスタートした。早々に「そんなのわかるはずがない」という結論に達して、話は「火遊び」の思い出にうつる。
私は子どものころ、九州南部の祖父母の家に帰郷した際、庭の一箇所に集められた生ごみに、よくマッチで火をつけ、遊んでいた。湿っている生ごみにうまく火をつける作業に興奮し、きつい臭いの煙に包まれるのも楽しんでいた。
この話をすると、友人にも似たような経験があったらしく、「あれは、都会生まれ、都会育ちの人には経験できないかもね」と胸を張った。
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「「火」にまつわる本とか紹介してよ」
雑談中、友人から無茶振りな注文があった。
私は自宅の本棚を眺めながら、ある一冊の本を選び出す。
気象学者・三宅泰雄の書いた『空気の発見』(角川ソフィア文庫)。この中に、「火」にまつわる章があることを、うっすらと記憶していた。
「もえることの意味」と題された章では、火がもえる原理を探究したイギリスの医師、ジョーン・メイヨウに光があてられている。
上記に引用したメイヨウの発見は、真理を突いたものであったが、当時(1600年代)はほとんど相手にされず、それから100年以上も忘れさられることになった。
「正しい意見」だからといって、それがすんなり万人に受け入れられるとは限らない。また逆も言えて、万人に受け入れられないことをもって、自身の意見の深淵さを誇り、「正しい意見」であると確信するのも誤りである。批判的精神は、自己と他者へ、区別なく向けられるべきだ。
*
餅を食べ終えて、いまから片付けのために立ち上がろうとすると、友人が「まあまあ、いったん座ろう」と肩に手を置いた。
指示に従うと、友人は部屋の電気を消して、何ものっていないガスコンロの火をつけた。
暗い一室に、ガスコンロの火が微かに揺れている。友人と私は、まるで蛍の光でも見るように、その火を味わった。
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