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在野研究一歩前(32)「読書論の系譜(第十七回):加藤熊一郎『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)④」

「此の外に熟といふこと尤も肝要なり朱子曰く凡そ文字を看る熟讀精思之を久うせば正文邊に自ら細字註解露出し來る方に是れ自家得力の處とジョンロック曰く他人の説を理解せんと欲せは其言句を離れて其意義趣意を審にし其議論の根據とする所及ひ其の關係する所を明かに領知するを要すと讀書百遍意自ら通ず熟は讀書の要あり學者決して怠るべからす。ステワルドも亦た曰く思考することなく唯だ廣く且つ多く書を讀むときは反て智力を弱くするものなりと以て紳に書すべし
 讀書に關する注意は以上之を述たるが科學上の著書は讀むに從ひ其の梗概を記し置くこと尤も必要なり或は表を作り或は圖を製し記憶に便なる様一々書き止め時々出してこれを讀むときは勞少くして記憶は永く去らず知らず識らずの中に大意を領し得べし佛敎研究者には古來系圖を製して記憶に便せること少からずこれを普通學の研究に用ひて最も妙なることなり、文章の書を讀むには梗概を記し置くの要なければ其の喜ぶべき文句は一々記し置き會心の句は洩さず認めて時々に朗誦する又文思を助くるものなり讀書家は何を讀むにも常に坐右に「備忘錄」やうのものを作りてこれらの便に供するをよしとす、」


「毛穉黄」の説いた「読書の要」(「収」「簡」「專」「恒」)に加えて、加藤は「熟」の重要性も説く。これまでの読書論においても「熟」は「熟読」として、その重要性を力説されていた。
 また、「熟読」と関連する読書法として、ある本を読みながらその梗概を記しておくことや、表・図の作成も勧められている。これらの手段を用いることで、読書によって得られた知識が、ながく記憶されることに繫がるという。
 「図」を使用する記憶法については、仏教研究者にも試みる者が多かったという。ここからは、本書において仏教者に「普通學」の学習を勧める加藤熊一郎の意志が感じ取れる。
 「読書」はただ読むだけで済ませてはならず、「備忘録」などを準備して「記憶」することにも重点を置かねばならない。


「讀書に諸般の注意あるは勿論なれどその中いと切なるものを時間なりとす、讀書の時に就ては文學士澤柳政太郎氏の讀書法示す所尤も我か意を得たり曰く、身体の壮健なる時、精神の爽快なる時、情緒の静安なる時、と身体の壮健ならさる時精神の夾快ならざる時情緒の静安ならざる時は心散漫に頭岑々として痛み身中ゆるみ体倦む如何ばかり永く書を讀むとも何の功かあらむ、今一日中これらに尤も適當せる時を求めば早朝を第一とす夜來蓄積せる氣力健かに精神爽かに体もまた安しこれに次くを午餐后二三時間とし夜は一日疲勞せる人々には如何あるべけれど萬籟寂として人静かなる時燈火の下に讀みもてゆく趣はいと深かり、書を讀まむ人如上の注意を以て適宜の時に心を一にして讀まむには其の功や多からむ、」(P61~62)

⇒「読書」は「いつ」行なうのがいいか、という問題については、これまでに取り上げた「読書論」の中でも散々議論されてきた。
 今回の引用文では、私が「読書論の系譜」で最初に取りあげた、澤柳政太郎編『読書法』(哲学書院、1892)が紹介されている。ここから、加藤熊一郎が既存の読書論として、上記の澤柳政太郎の著書を参考にしたという事実が確認できる(引用文中で紹介されている澤柳の「読書論」については、以前拙者が書いた記事を参照)。
 「読書論の系譜なんてあるのかな……」と、タイトルをつけておきながら不安がっていた私にとって、こんなにうれしい発見はなかった。

 以上、四回にわたって、『普通學獨修指針 一名 普通學大意』(國母社、1895)の中に示された、加藤熊一郎の「読書論」を見てきた。
 今後も、のんびりと「読書論の系譜」を追っていきたいと思う。

 お読み頂きありがとうございました。

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