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らしさ
先月、友人と会う約束があり、大阪へ。移動手段は、京阪電車。
電車に乗るということは、本を読むということである。荷物にならない薄めの詩集をお供に選んだ。
座席に腰を下ろし周囲を見回すと、目に入るのは重たい荷物を抱えた外国人観光客の姿。飛び交う外国語には、笑い声が混じる。京都を満喫できてたらいいな、と思いつつ、私は視線を本の上に移した。
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電車移動のお供に選んだのは、ミュージシャン・友部正人の詩集『バス停に立ち宇宙船を待つ』。友人に本を貸した際、お礼に譲ってもらった本である。
「街には暮らしに忍び込んで来るものと来ないものとがある。大都市と呼ばれるニューヨークにいても、ぼくの暮らしに忍び込んで来たものは実に少ない。そのせいでぼくのニューヨークはあまりニューヨークの顔をしていない。でもそれがぼくのニューヨークだった。」
(友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』ナナロク社、P110)
どこで読書をしているかによって、目が留まる箇所は異なってくる。
家で本を読んでいたならば、上記の文章をわざわざ取り上げなかったかもしれない。
京都から大阪へと向かう電車の中。私は普段、京都らしい生活をしているのだろうか。
まあ、できていない。そもそも「京都らしい生活」とは何だろう。
それが、美しい石庭を眺めながら、聖護院大根の碗物や小鮎の天ぷらを味わう暮らしであるならば、もちろんそんな生活はできていない。一方、寺社仏閣に日常的に立ち寄る、または散歩コースの一部になっている、そんな生活を指すなら、私は少しだけ「京都らしい生活」ができていると言える。ほんの少しだけ。
おそらく、京都で数日間を過ごす外国人観光客の方が、余程「京都らしさ」を堪能できていると思う。が、それは"生活"とは別のものだ。
*
「もうだいぶ前のことになるが
ぼくはバス停に立って宇宙船を待っていた
どうしてそんなことをしたかというと
歌が行き詰っていたからだ
ぼくの歌に乗り物がなかった
どこにも行けないような気がしていた
それで真夜中を選んで宇宙船を待っていた
遠い所まで運んでもらいたい
それがどこなのかわからないけど
まわりは廃屋のように見えた
結局宇宙船は来なかったが
宇宙船を待っている感覚だけが残った」
(友部正人『バス停に立ち宇宙船を待つ』ナナロク社、P100〜101)
友部のように、創作活動に行き詰まって云々ということではないが、私も特に目的なく、寺の境内の木椅子に腰を下ろし、ただぼーっと宙を見つめていることがある。BGMは、風が枝を揺らす音だけ。
ここに居続ければ、何か面白いことが起こるかもしれない。そんな期待もほとんど持たず、ただぼーっとしている。よく考えれば、こういうことが自然とできる生活こそが、「京都らしい生活」と言えるのかもしれない。
京都には、世間の喧騒とは無縁の空間が保持されている。
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