名前
私はある時期まで、有吉佐和子と阿川佐和子を判別できていなかった。
阿川佐和子のエッセイが好きな知り合いの女性が、「いつか会ってお話ししてみたい」と話すのを耳にして、「もう亡くなってるのが残念ですね」と反応してしまう。当然「えっ? まだ亡くなってませんよ!」と驚かれ、私が阿川佐和子と有吉佐和子を混同していることが、明らかになった。
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人の名前を間違えることほど、失礼なことはない。
その贖罪意識からだけではないが、定期的に意識して阿川佐和子のエッセイを読むようになった。
一度読み始めると、スルスル読めてしまう。気づけば次の本を求めている自分がおり、「愛読者になるのも納得」とひとりごちた。
引用したのは、阿川が自身の名前の由来について語った文章。ここに出てくる「父」とは、作家の阿川弘之である。
名前というのは、自分では決められないのに、ずっとついて回るという厄介な代物だ。命名者である親や親類は、何らかの願いを込めて名付けているケースが多いが、私の場合、その願いと自分の生活態度があまりにかけ離れていて、気まずくなったこともある。
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現代は、戸籍上の本名とは違う名前を、各々が持っている時代である。自分で決めたアカウント名を掲げて、活発な発信が行われているSNSでは、もういちいち本名かそうでないかを気にすることはない。
私にも、リアルな場でお互いをSNSのアカウント名で呼び合う友人・知人がおり、本名を知らなくても、特に問題は起きていない。阿川は「キラキラネーム」の例を出していたが、おじいちゃん・おばあちゃんがアカウント名で語り合う未来も、そう遠くはないと思う。
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