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研究史

 今ではへなへなな私でも、十代の後半ぐらいまでは、人と違ったこと、新しいことをして評価されたい、という願望を持っていた。
 この願望の第一の関門は、そもそも自分のしようとしていることが、本当に「新しいこと」なのかを見極めるところにある。大抵の場合、この作業の過程で人は挫折する。見極めのための確認作業を途中で放棄するか、すでにしている人を発見してしまうか。どちらにせよ、「新しいこと」を成し遂げるのはそれだけ難しい。

「どのような出来事も、新しいからといって更地のところから研究がはじまるということはありません。必ずそこには参照点となる「研究史」が存在します。つまり、自分が思いついたことは、何千年の歴史のなかで誰かがすでに発見して研究している。そうであるならば、それを踏まえて自分の考えたことを発展させた方が有益でしょう。」
金菱清『フィールドワークってなんだろう』ちくまプリマー新書、P63)

 私にとっては、研究活動は身近なテーマなので、それを例にとって話を続けてみたい。
 上記の引用文で社会学者の金菱清も指摘するように、ある出来事を深掘りしていく第一歩は、「研究史」の確認にある。「これをテーマに研究している人はさすがにいまい」と思えるマニアックなテーマであっても、それと関連する研究をしている人は、予想以上に見つかる。ただ、光があたっていないだけ、知られていないだけである。
 ここで、「なんだ、自分より先にしている人がいるのか、つまんね」といって、しようとしていたことを放棄するのは早計である。もしかするとあなたの使命は、まずはその光があたっていない先人たちを掘り起こし、今ここに蘇らせることにあるかもしれない。その作業の過程で、彼らが成しえていなかったことに気づく可能性がある。

 「研究史」の研究は、お世辞にも煌びやかな取り組みではない。地味である。ただこの地味さは、基盤として丈夫で、長持ちする。表面上の目新しさだけで、する・しないを決してしまうのは勿体ない。




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