研究史
今ではへなへなな私でも、十代の後半ぐらいまでは、人と違ったこと、新しいことをして評価されたい、という願望を持っていた。
この願望の第一の関門は、そもそも自分のしようとしていることが、本当に「新しいこと」なのかを見極めるところにある。大抵の場合、この作業の過程で人は挫折する。見極めのための確認作業を途中で放棄するか、すでにしている人を発見してしまうか。どちらにせよ、「新しいこと」を成し遂げるのはそれだけ難しい。
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私にとっては、研究活動は身近なテーマなので、それを例にとって話を続けてみたい。
上記の引用文で社会学者の金菱清も指摘するように、ある出来事を深掘りしていく第一歩は、「研究史」の確認にある。「これをテーマに研究している人はさすがにいまい」と思えるマニアックなテーマであっても、それと関連する研究をしている人は、予想以上に見つかる。ただ、光があたっていないだけ、知られていないだけである。
ここで、「なんだ、自分より先にしている人がいるのか、つまんね」といって、しようとしていたことを放棄するのは早計である。もしかするとあなたの使命は、まずはその光があたっていない先人たちを掘り起こし、今ここに蘇らせることにあるかもしれない。その作業の過程で、彼らが成しえていなかったことに気づく可能性がある。
「研究史」の研究は、お世辞にも煌びやかな取り組みではない。地味である。ただこの地味さは、基盤として丈夫で、長持ちする。表面上の目新しさだけで、する・しないを決してしまうのは勿体ない。
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