想像力
小説は読者の想像力に頼りすぎだと思う。
これは、映画好きの後輩さんの口癖である。彼に誘われて映画を観に行くと、必ずこの文言を耳にすることになる。
実際に体験したり、映像に触れたりしない限り、活字の情報からある光景をイメージするのには限度がある。例えば、戦地を舞台にした小説を読むとき、そこで喚起されるイメージの多くは、既存の戦争をテーマにした映像作品に拠っているところがある。活字から想像力だけで、戦地の惨状をイメージするのは不可能である、と。
小説とは違って、映画は逃げない。観る側に示したい光景があるなら、それをあらゆる技術を使って、一つの映像に結実させる。
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上記の後輩さんの主張を聞くたびに、私は「うーん……」と唸ってしまう。
言いたいことが一ミリも理解できないわけではないが、賛同はできない。
一番の意見の違いは、活字に対する評価である。後輩さんが「限界」を見出す点に、私は「可能性」を見ている。
詩人・井坂洋子の詩集から一節引いてみた。ここで井坂は、現実空間の中の「舗道」を題材にして、"舗道"という漢字二字では到底言い尽くせないほど、現実には「舗道」が無数に存在することを指摘している。
ここから「活字には限界がある」という主張を読み取ることは可能だが、別の見方もできる。ある一つの言葉は、あらゆる現実を想像させる潜在力を秘めている。読者にある一つのイメージを強いない。現実が無数に存在する事実を受け止めるのだ。
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小説と映画の優劣比較ーー井坂はそもそもこの土俵にあがらない。
言葉であろうと映像であろうと、現実の多様性を前にすれば無力である。ただ無力であるからこそ、そこに表現の無限の可能性が開かれている。
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