【飛騨の匠】1300年の伝統を受け継ぐ木工の技と心|飛騨さんぽ
飛騨の街歩きは、楽しい。最近は、いろいろな建造物に目を凝らすのにハマっている。
趣を感じる街並み、見た目から伝わる美しさに心が踊るのはもちろんだが、その歴史に想いを馳せると日本文化の持つ奥行きを感じることができる。
飛騨は昔から「匠の里」として知られてきた。現地で暮らしていると、「飛騨の匠」という言葉をよく耳にする。飛騨出身の夫の話では、小学校の頃から社会科の時間に「飛騨は、匠のまち」と習うらしい。歴史を学ぶだけでなく、実際の大工の方を招いた木工授業なども行われているという。飛騨にとって「匠の技術」はまちの誇りであり、アイデンティティでもある。
今回はその歴史や引き継がれてきた技を紐解きつつ、街歩きの楽しみ方もお伝えしたい。
飛騨の匠が生まれたワケ
私が暮らす飛騨市の森林面積は93%。お隣の高山市も約92%を森林が占める。飛騨の人々は、今も昔も森とともに暮らしてきた。
「飛騨の匠」が現存する史料に初めて登場するのは、「養老律令」(養老2年(718)大宝律令を一部改修して編纂した律・令各10巻の法典)の賦役令にある斐陀(飛騨)国条。今から約1300年前に遡る。
租・庸・調の税のうち、庸・調を免ずる代わりに、当時の都づくりに従事する木工技術者として里(50戸)ごとに10人を1年交代で都へ出役することが義務づけられ、平安時代末期までのおよそ500年間に亘って続いた。この制度は、全国唯一、飛騨にのみ適用された制度だ。
なぜ飛騨にのみ適用されたかは、諸説ある。「税を免じてまでも飛騨の木工技術者たちを都づくりに活用したかった」という説や、「飛騨に対しての差別的扱いだった」「飛騨が貧しく、通常の庸・調の税負担ができずその代償として労役が課された」という説も。
どの説が本当かわからないが、森とともに暮らしてきた飛騨の人々が「木の扱い」に長けていたことは間違いないだろう。そして、都で宮殿や寺院造りに従事するなかで大陸から持ち込まれた当時最高の建築技法を習得する機会に恵まれ、飛騨の人々が有する技術や木に関する知見がさらに磨かれていったのだろうと想像する。
ちなみに「飛騨の匠」は、平安時代末期に成立した『今昔物語集』にも伝説上の工匠として登場するなど、歴史にもその名を刻んでいる*。
今も引き継がれる匠の技と心
こうして長い歴史を経て磨かれ続けた「匠」の技術は、いまも飛騨の地にさまざまなかたちで脈々と引き継がれている。伝統工芸品に指定されている飛騨春慶・一位一刀や、家具づくりなど、様々な木工職人がいまも活躍している。
今回は、飛騨の匠の土台ともいえる「建造物」に携わる大工の方に話を聞いた。
昔ながらの無垢の木を使った建築に強いこだわりを持つ田中建築の田中雄二さんは「飛騨の匠の名に恥じない仕事をしたい」と語る。
名に恥じない仕事とはどのようなものか。
「良い木材の目利きができる。木の種類ごとの特性を把握し、使いどころを決め、組み方などの工夫で、丈夫な建造物を建てることができる。そうした知識と技術を兼ね備えているのが飛騨の匠です」
田中建築では良質と見定めた原木を市場で買い付け、自社で乾燥を行う。建材として使う木材もいまでは針葉樹が一般的だが、扱いのむずかしい広葉樹も積極的に活用している*。
とくにこだわっているのが「低温乾燥」だ。高温で乾燥させると、時間が短縮するうえに見た目も整いやすいが、細胞を壊してしまう。低温乾燥は時間がかかるが、木を生きたまま(=呼吸ができている)の状態に保つことができる。出来上がった木材は香りや色艶がよく、調湿効果も優れている。また、細胞が壊れていないため割れにくく、高い強度を誇る。
最近の家造りは、強度と生産性を両立するために金具などの使用が推奨されるが、田中建築では伝統的な組木の技術を活かすことで、より長く強度を保つ家造りにこだわっているという。
* * *
次に、木造伝統建築を継承する樹杜屋あらべぇの荒木昌平さんに話を伺った。荒木さんと木造伝統建築との出会いは、高校生のときだと言う。
「高校一年の夏休みに、近所で古民家の解体が行われていたんです。重機で一気に潰さず、壁を落とし、板をめくり、それらを梱包したりしている様子を見て、なぜこんなに丁寧に解体しているのだろうと疑問が湧きました。思い切って現場の職人さんに尋ねてみると、『解体した家を他の場所でもう一度組み立てるから』と返ってきました。
じつは、当時の我が家も川向かいの集落にあった家を解体し移築したものだと祖父から聞かされていたので、なるほどと納得しました。
夏休みに解体作業を手伝ってみないかと誘われ、こんな面白そうな作業を手伝えるならと二つ返事で引き受けました。これが僕の木造伝統建築との出会いです」
解体作業の手伝いを通じて、荒木さんは江戸時代後期の頃に建てられた民家の構造に対する理解を深めていった。家屋を手でばらしていく機会など今となってはめったにない。「貴重な経験だった」と荒木さんは振り返る。
「丸太のように曲がった材料でも、芯墨を打って算段をすれば組み上げられる。各部材には番付けと呼ばれる符号が記されていて、その通りに組み合わせると家が組みあがるんです。そして木という素材の寿命がとても長く、何百年も耐えられるものであることも学びました。すべてのことが僕にとって驚愕でした」
こうした経験をきっかけに大工を目指した荒木さんはいま、自身で山を保有しながら木々と向き合い、木造伝統建築を手掛け続けている。
「伝統構法は時代遅れではないと思っています。 自然の中で永遠に生産を繰り返すことのできる木を使った建築は、これからの時代に求められる循環型社会を築くうえで不可欠なものだと確信しています」
近年、日本では山の管理も問題になっているが、目利きのできる大工が山に入り、適切に木材を買い付けることができれば、山を持っている人も適正な利益を得ることができる。山の状態を良好に保ち、循環型社会を加速させようと日々想いを巡らせ活動している荒木さんから私たちが学ぶべきことは無数にある。
街で“匠の技”と出会う
大工の方々から直接お話を伺えたことで、建造物の見た目からは窺い知れないような飛騨の匠のこだわりを知ることができた。
それでは、飛騨の匠の技をもっとも肌で感じられる場所はどこか。それは、やはり寺社仏閣である。木造建築では飛騨地域で最も大きい本堂を持つ本光寺を訪れた。木工に詳しい夫*と一緒に巡ってみると、今までとはまったく違う感動を味わえたので、お寺の歴史とともにご紹介したい。
本光寺は、金森可重が城下町を建設する際、天正17年(1589)に現在の場所に移転され、長い歴史を持つ浄土真宗のお寺。現存する建物は、明治37年(1904)の古川大火で焼失し、大正2年(1913)に再建されたもの。飛騨では、大正の頃でも江戸時代の技術が引き継がれており、その名残を感じられる貴重な建物である。
まずは、こちらの美しい装飾をご覧いただきたい。
堅い広葉樹から掘り出す技術と、美を追求するセンス。立ち止まって目を凝らしていると、飛騨の匠の言葉が時代を飛び越えて聞こえてきそうだ。
次に、柱に注目してみよう。
「木を美しい円柱に切り出すのは高い技術を要する。また、よほど樹齢を重ねた立派な樹木でなければ、これほど太い柱を切り出すことはできない」と夫。飛騨の豊かな森がもたらしてくれる自然の恵みの有難さをあらためて感じる。
屋根の裏側に目を凝らすと、幾重にも木材が重なっていることがわかる。これは、雨漏りを防ぐための工夫だと言われている。重ね方によって、水の抜け方が変わるのだそう。
これまで何度か訪れたことのある本光寺だが、木工の技術を意識することで解像度がぐっとあがり、味わったことのない感動に胸が弾んだ。
1300年の歴史が培った匠の技に想いを馳せながら、皆さんにもぜひ飛騨の街歩きを楽しんでもらいたい。
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文・写真=浅岡里優
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