芭蕉が愛し、育てようとしたもの|対談|小澤實×磯田道史#3
芭蕉の最愛の人、杜国
小澤:僕は、芭蕉が恋の相手として一番大事にしていたのは、弟子の杜国だったと考えています。杜国は名古屋の豪商でしたが、米の架空取引(空米売買)の罪に問われて伊良湖(愛知県田原市)に流される。芭蕉はそこを訪ねて、「鷹一つ」の句を詠んでいます。
鷹一つ見付てうれしいらご崎 芭蕉
磯田:この時代、「逸物の鷹」という言い方があって、ほれぼれするような、頭抜けて優秀な人を鷹に例えました。芭蕉にとって坪井杜国は鷹だったんでしょうね。杜国の方も気があるようで、尊敬していたからということもあるのでしょうが、翌年、一緒に伊勢や吉野を旅行する。
小澤:「逸物の鷹」という言い方自体にもエロスを感じてしまいます。『笈の小文』の旅は、ほとんど杜国と一緒。杜国が芭蕉の童子(召使の少年)になると言って万菊丸という戯号を名乗れば、芭蕉も「いと興あり」とおもしろがる。とってもラブラブで、芭蕉は名句の数々を作っていくんです。杜国は吉野で、芭蕉の句に対して季語のない、寄り添う形の句を付けたり、自分自身を消してまで付き合っていく。そういう男は、ほかにいなかったんじゃないかな。
乾坤無住同行二人
よし野にて桜見せうぞ檜の木笠 芭蕉
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 杜国
磯田:芭蕉はどこかに、杜国を夢に見て泣いたということを書いていましたよね。
小澤:『嵯峨日記』です。杜国は、芭蕉と一緒に旅行した二年後に、若くして病死してしまう。それで芭蕉は夢に見て、杜国のことを想って泣いたんです。二人の関係を考えると、かなり生々しい夢じゃないかと思います。
磯田:夢にまで見るって、なかなかですよね。芭蕉を理解するために、ボーイズラブとか、情報・探索活動、廻船と補助線を引いていくと、これまで見えてこなかった姿が見えてくる。日本史上、何人かの文化人が、釈迦十大弟子のように、利休の千家十職とか、芭蕉十哲などと、釈迦になぞらえた「聖人」化がなされ、祭り上げられています。そのなかで、リアルな実態が語られていません。しかし、補助線をうまく引くと、芭蕉の深みが裏まで見えてきます。
小澤:芭蕉は、俳聖と呼ばれていて……俳句の聖人。そういう言葉を使うことで、こぼれ落ちてしまう芭蕉の魅力がある。情報収集をやっていたのか、『おくのほそ道』はそれを隠すための方便だったのかと、最初はショックだったんですけど、長く取材してきて、そう思えるようになってきました。
磯田:情報収集はしていたでしょうが、曾良が俳句と完全に切れたところで巡見使をやっていたとは感じられません。芭蕉や弟子たちは、頼まれれば情報収集もしたでしょうけど、けっこう自由に、大名たちのことも車座になって語り合って、笑っていたんじゃないかと思います。大名の年貢米を回漕している豪商と旅する頭脳派の俳諧師の放談会ですから。大名の内証つまり懐具合だけでなく、あらゆる森羅万象を話題にしたはずです。
芭蕉を芭蕉にした名古屋の弟子たち
小澤:杜国をはじめ、荷兮*や越人、知足ら尾張の弟子たちは、芭蕉が芭蕉になるのに付き合った人たちでもあります。
貞享元(1684)年、芭蕉は名古屋の連衆と『冬の日』五歌仙を巻き上げ、漢詩文調を脱した新風を興しました。それまで俳壇の表舞台に出てきていなかったけれども、すごい才能を持った人たちが尾張に住んでいて、新しい才能と出会い、芭蕉自身も燃えるところがあったのだと思います。
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
磯田:蕉門の根拠地点を築きあげていくときに、尾張名古屋に行ったのが興味深いですね。
小澤:ですが、名古屋の弟子たちは、芭蕉が『おくのほそ道』の旅のあと、日常の生活を詠み、日常の言葉を大事にして、古典を切り結ばない「かるみ」の傾向に進んでいくと、ついていけなくなってしまうんです。『冬の日』の成功の味が忘れられなくて、それを捨てた芭蕉から離れていく。そこがまた芭蕉のすごいところで、仲間よりも自分の俳諧の理念の方を優先するわけです。それだけの理念を持っていたので、後に正岡子規の写生の俳句につながるような「かるみ」の世界を打ち立てることができたとも言えますが。
磯田:芭蕉は「かるみ」の概念を手に入れると、書簡で盛んに門人たちに奨励しています。元禄七(1694)年六月には、「かるみ」と興に専ら励めと杉風に書いていますし、曾良宛の書簡では新しく開発した「かるみ」についてきて、ほかの人に劣らないようにと説いている。「かるみ」を基準にして門人を引っ張ったり、励ましたり、褒めたり、落としたりしていて、既存の人間関係があっても、自分の芸術目標を掲げ、そっちへ連れていこうという強い意志が感じられます。
小澤:芭蕉が、俳句が一番生きる方法を考え抜いた結果、導いていることなので、ついていきたいところなんですけど、弟子たちにもいろいろ都合があって、ついていけず置いていかれた人たちもいる。それも蕉門のおもしろさだという気がしています。
磯田:私が門人なら、芭蕉の「かるみ」についていこうと思いますね。
俳句って、いいですね
磯田:杜国に話を戻しますが、江戸時代は日本人の海外渡航は強く制限されていた時代なんですけど、『冬の日』に「朝鮮の細りすゝきのにほひなき」という杜国の句があります。いわゆる「鎖国」の日本で、日本語が話されていない海外に行けたのは、朝鮮半島(釜山)の対馬藩の倭館です。しかも、対馬藩の貿易関係者しか行けません。ススキから「朝鮮」という言葉が出る。そう、つながる。そこに思いを馳せるような広い視野を持っていた人なんですよね。本当にボーイズラブであったかどうかはわからないけど、芭蕉にとって杜国と話していた時間は生きている時間だったんだと思います。
小澤:芭蕉は、杜国の「いびきの図」というのも描いていて、最初不特定、車を揺るがすようになって、そして細くなるというような、そういう絵を描いています。普通の句友ではありえないと思うんです。やっぱり深い愛がないと「いびきの図」まで描かないんじゃないかなって。
磯田:「万菊丸いびきの図」というやつですね。
小澤:これ、名作だと思います。いびきの図を描いたのは、世界のなかでも芭蕉だけでしょう。それを描かせて、残させた杜国もまたえらいと思います。
磯田:弟子のいびきに直面して、「いびきの図」を描く。おもしろいですよね、芭蕉の発想って。いびきを線で描いたということは、時間軸に対して、いびきの音量を連続的な集合としてとらえ、グラフを作った先駆者でもあるわけです。数学でいうところの位相空間論をいびきに適用する。音を空間に置き換えるとは……やっぱりすごい。天才ですよね。一緒に行った杜国に触発されてこういうことが起こるわけだから、触媒になるような人たちが周りにいっぱいいて、芭蕉という天才が生成されたんだと思います。
小澤:杜国が引き出したところがありますね。
磯田:いびきだけで芭蕉を考えても 、楽しい一日が過ごせそうだな。江戸初期に活躍した羽黒山の別当、天宥が描いた「四睡図」の賛として詠んだ句にも、いびきがでてくるものがありますよね。
月か花か問へど四睡の鼾哉 芭蕉
虎もいびきをかくんでしょうかね……おかしみというか、みんな一緒という生命のあり方をよく見つけています。
小澤:区別していないんですよね。
磯田:大金持ちになってもいびきはかくし、お殿様も、師匠もいびきをかく。絵の中の虎もいびきをかいている。そういう楽しい考えがあるんじゃないですかね。俳句って、いいですね。変なまとめ方だけど、最後に俳句っていいなと思いました。
小澤:うれしいですね。このいびきの句も連載で書きたかったです。それにしても、磯田さんが芭蕉や俳句に詳しくて驚きました。
磯田:実は、入学から三カ月だけ慶應大学俳句研究会に在籍していたんです。飄々としていて幸せそうな先輩たちに惹かれて入部して、山陽地方の南から来たから南陽という俳号をつけのですが、吟行に句会と俳句って意外と時間がかかる。先輩にわりと多年留年生もいた(笑)。こっちとしては、はやいとこ卒業して大学院に行きたい。学者を目指していたからです。それで、俳句も二十句も詠まないうちに辞めてしまいました。でも、短い時間でしたけど、先生や先輩の話は面白く、ありがたかった。
小澤:大学時代に俳句をなさっていたとは驚きです。それも有名俳人を輩出している慶應大学俳句研究会だったとは。
磯田:初めて言ったかもしれません(笑)
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