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芭蕉が愛し、育てようとしたもの|対談|小澤實×磯田道史#3

俳人・小澤實さんが芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、俳人と俳句と旅の関係を深く考え続けた二十年間の集大成芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)が、好評発売中です。
俳句の魅力、芭蕉の魅力、旅の魅力について小澤さんがゲストと語る全9回の対談の最終回は、一番相性がよかった旅の「バディ」について、また晩年に精力を傾けた俳諧の新しい流れ「かるみ」について、芭蕉の熱い思いを語りつくしました。

芭蕉の最愛の人、杜国

小澤:僕は、芭蕉が恋の相手として一番大事にしていたのは、弟子の杜国とこくだったと考えています。杜国は名古屋の豪商でしたが、米の架空取引(空米売買)の罪に問われて伊良湖(愛知県田原市)に流される。芭蕉はそこを訪ねて、「たか一つ」の句を詠んでいます。

鷹一つ見付みつけてうれしいらご崎 芭蕉

『笈の小文』所載。貞享4(1687)年、芭蕉は故郷の伊賀に向かう途次とじ、名古屋から引き返し、渥美半島の保美ほびで謹居していた杜国に再会。その嬉しさを詠んだ句[上巻172ページ]

伊良湖岬 恋路ヶ浜

磯田:この時代、「逸物いちもつの鷹」という言い方があって、ほれぼれするような、頭抜けて優秀な人を鷹に例えました。芭蕉にとって坪井杜国は鷹だったんでしょうね。杜国の方も気があるようで、尊敬していたからということもあるのでしょうが、翌年、一緒に伊勢や吉野を旅行する。

小澤:「逸物の鷹」という言い方自体にもエロスを感じてしまいます。『笈の小文』の旅は、ほとんど杜国と一緒。杜国が芭蕉の童子(召使の少年)になると言って万菊丸という戯号ぎごうを名乗れば、芭蕉も「いと興あり」とおもしろがる。とってもラブラブで、芭蕉は名句の数々を作っていくんです。杜国は吉野で、芭蕉の句に対して季語のない、寄り添う形の句を付けたり、自分自身を消してまで付き合っていく。そういう男は、ほかにいなかったんじゃないかな。

乾坤けんこん無住同行二人
よし野にて桜見せうぞ木笠きがさ 芭蕉
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 杜国

『笈の小文』所載。前書は、巡礼の笠に書く文句で、仏とともにいるという意味。芭蕉は杜国を檜の木笠に例え、いつもともにある喜びを示し、杜国も芭蕉の句の「桜」を「我も」に変えた季語のない句で同じ思いを表している[上巻220ページ]

磯田:芭蕉はどこかに、杜国を夢に見て泣いたということを書いていましたよね。

小澤:『嵯峨日記』です。杜国は、芭蕉と一緒に旅行した二年後に、若くして病死してしまう。それで芭蕉は夢に見て、杜国のことを想って泣いたんです。二人の関係を考えると、かなり生々しい夢じゃないかと思います。

磯田:夢にまで見るって、なかなかですよね。芭蕉を理解するために、ボーイズラブとか、情報・探索活動、廻船と補助線を引いていくと、これまで見えてこなかった姿が見えてくる。日本史上、何人かの文化人が、釈迦十大弟子のように、利休の千家十職とか、芭蕉十哲などと、釈迦になぞらえた「聖人」化がなされ、祭り上げられています。そのなかで、リアルな実態が語られていません。しかし、補助線をうまく引くと、芭蕉の深みが裏まで見えてきます。

小澤:芭蕉は、俳聖と呼ばれていて……俳句の聖人。そういう言葉を使うことで、こぼれ落ちてしまう芭蕉の魅力がある。情報収集をやっていたのか、『おくのほそ道』はそれを隠すための方便だったのかと、最初はショックだったんですけど、長く取材してきて、そう思えるようになってきました。

磯田:情報収集はしていたでしょうが、曾良そらが俳句と完全に切れたところで巡見使をやっていたとは感じられません。芭蕉や弟子たちは、頼まれれば情報収集もしたでしょうけど、けっこう自由に、大名たちのことも車座になって語り合って、笑っていたんじゃないかと思います。大名の年貢米を回漕かいそうしている豪商と旅する頭脳派の俳諧師の放談会ですから。大名の内証つまり懐具合だけでなく、あらゆる森羅万象を話題にしたはずです。

芭蕉を芭蕉にした名古屋の弟子たち

小澤:杜国をはじめ、荷兮かけい*や越人えつじん知足ちそくら尾張の弟子たちは、芭蕉が芭蕉になるのに付き合った人たちでもあります。

*荷兮:尾張名古屋の医師。姓は山本。芭蕉を招いて歌仙を興行し、芭蕉七部集の『冬の日』『春の日』『阿羅野あらの』を編集。晩年は芭蕉と疎遠となり、連歌師に転じた。

貞享元(1684)年、芭蕉は名古屋の連衆れんじゅと『冬の日』五歌仙を巻き上げ、漢詩文調を脱した新風を興しました。それまで俳壇の表舞台に出てきていなかったけれども、すごい才能を持った人たちが尾張に住んでいて、新しい才能と出会い、芭蕉自身も燃えるところがあったのだと思います。

狂句きょうく木枯こがらしの身は竹斎ちくさいに似たるかな 芭蕉

『野ざらし紀行』、荷兮編『冬の日』所載。狂句、風狂の詩を売りながら名古屋にたどりついた私は、かの竹斎に似ているという句意。竹斎は、江戸時代の仮名草子『竹斎』の主人公で、東に下る途次、名古屋の裏町に三年間滞在する狂歌好きの医師[上巻108ページ]

磯田:蕉門の根拠地点を築きあげていくときに、尾張名古屋に行ったのが興味深いですね。

小澤:ですが、名古屋の弟子たちは、芭蕉が『おくのほそ道』の旅のあと、日常の生活を詠み、日常の言葉を大事にして、古典を切り結ばない「かるみ」の傾向に進んでいくと、ついていけなくなってしまうんです。『冬の日』の成功の味が忘れられなくて、それを捨てた芭蕉から離れていく。そこがまた芭蕉のすごいところで、仲間よりも自分の俳諧の理念の方を優先するわけです。それだけの理念を持っていたので、後に正岡子規の写生の俳句につながるような「かるみ」の世界を打ち立てることができたとも言えますが。

磯田:芭蕉は「かるみ」の概念を手に入れると、書簡で盛んに門人たちに奨励しています。元禄七(1694)年六月には、「かるみ」ときょうに専ら励めと杉風さんぷうに書いていますし、曾良宛の書簡では新しく開発した「かるみ」についてきて、ほかの人に劣らないようにと説いている。「かるみ」を基準にして門人を引っ張ったり、励ましたり、褒めたり、落としたりしていて、既存の人間関係があっても、自分の芸術目標を掲げ、そっちへ連れていこうという強い意志が感じられます。

小澤:芭蕉が、俳句が一番生きる方法を考え抜いた結果、導いていることなので、ついていきたいところなんですけど、弟子たちにもいろいろ都合があって、ついていけず置いていかれた人たちもいる。それも蕉門のおもしろさだという気がしています。

磯田:私が門人なら、芭蕉の「かるみ」についていこうと思いますね。

俳句って、いいですね

磯田:杜国に話を戻しますが、江戸時代は日本人の海外渡航は強く制限されていた時代なんですけど、『冬の日』に「朝鮮の細りすゝきのにほひなき」という杜国の句があります。いわゆる「鎖国」の日本で、日本語が話されていない海外に行けたのは、朝鮮半島(釜山)の対馬藩の倭館です。しかも、対馬藩の貿易関係者しか行けません。ススキから「朝鮮」という言葉が出る。そう、つながる。そこに思いを馳せるような広い視野を持っていた人なんですよね。本当にボーイズラブであったかどうかはわからないけど、芭蕉にとって杜国と話していた時間は生きている時間だったんだと思います。

小澤:芭蕉は、杜国の「いびきの図」というのも描いていて、最初不特定、車を揺るがすようになって、そして細くなるというような、そういう絵を描いています。普通の句友ではありえないと思うんです。やっぱり深い愛がないと「いびきの図」まで描かないんじゃないかなって。

磯田:「万菊丸いびきの図」というやつですね。

小澤:これ、名作だと思います。いびきの図を描いたのは、世界のなかでも芭蕉だけでしょう。それを描かせて、残させた杜国もまたえらいと思います。

磯田:弟子のいびきに直面して、「いびきの図」を描く。おもしろいですよね、芭蕉の発想って。いびきを線で描いたということは、時間軸に対して、いびきの音量を連続的な集合としてとらえ、グラフを作った先駆者でもあるわけです。数学でいうところの位相いそう空間論をいびきに適用する。音を空間に置き換えるとは……やっぱりすごい。天才ですよね。一緒に行った杜国に触発されてこういうことが起こるわけだから、触媒になるような人たちが周りにいっぱいいて、芭蕉という天才が生成されたんだと思います。

小澤:杜国が引き出したところがありますね。

磯田:いびきだけで芭蕉を考えても 、楽しい一日が過ごせそうだな。江戸初期に活躍した羽黒山はぐろさんの別当、天宥てんゆうが描いた「四睡しすい図」の賛として詠んだ句にも、いびきがでてくるものがありますよね。

月か花か問へど四睡しすいいびきかな 芭蕉

天宥画「四睡図」画賛。「四睡図」は、豊干ぶかん寒山かんざん拾得じっとくが虎とともに眠る姿を描いた禅画。月か花かと禅の境地を考えてみたが、僧三人と虎一匹は気持ちよさそうにいびきをかいているという句意。

虎もいびきをかくんでしょうかね……おかしみというか、みんな一緒という生命のあり方をよく見つけています。

小澤:区別していないんですよね。

磯田:大金持ちになってもいびきはかくし、お殿様も、師匠もいびきをかく。絵の中の虎もいびきをかいている。そういう楽しい考えがあるんじゃないですかね。俳句って、いいですね。変なまとめ方だけど、最後に俳句っていいなと思いました。

小澤:うれしいですね。このいびきの句も連載で書きたかったです。それにしても、磯田さんが芭蕉や俳句に詳しくて驚きました。

磯田:実は、入学から三カ月だけ慶應大学俳句研究会に在籍していたんです。飄々としていて幸せそうな先輩たちにかれて入部して、山陽地方の南から来たから南陽という俳号をつけのですが、吟行に句会と俳句って意外と時間がかかる。先輩にわりと多年留年生もいた(笑)。こっちとしては、はやいとこ卒業して大学院に行きたい。学者を目指していたからです。それで、俳句も二十句も詠まないうちに辞めてしまいました。でも、短い時間でしたけど、先生や先輩の話は面白く、ありがたかった。

小澤:大学時代に俳句をなさっていたとは驚きです。それも有名俳人を輩出している慶應大学俳句研究会だったとは。

磯田:初めて言ったかもしれません(笑)


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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年(1956)、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。このほど『芭蕉の風景』(ウェッジ)で、第73回読売文学賞随筆・紀行賞を受賞した。

磯田道史(いそだ・みちふみ)
歴史学者。1970年、岡山県生まれ。近世中後期の藩政改革を専門とし、近年では天災(地震、津波)や感染症などの歴史研究も行う。慶應義塾大学大学院博士課程修了。静岡文化芸術大学教授などを経て、2016年、国際日本文化研究センター准教授、21年4月から教授。堺雅人主演で映画化された『武士の家計簿』(新潮新書)など著書多数。

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