元祖ノンフィクションライター・鴨長明が克明に記した「災害」の記憶|『超約版 方丈記』(7)
「安元の大火」の悪夢
地獄の業火とはこれか
~一夜のうちに、塵灰となりにき~
ものごころがついてから、はや四十年余もの歳月が過ぎ去ってしまった私の人生だが、その間、この目と耳で、いやというほど不思議な出来事を見聞してきた。
なかでも鮮烈な記憶として脳裏に刻まれているのは、安元の大火だ。安元三(1177)年四月二十八日に平安京で発生した大火事、通称「太郎焼亡」がそれである。
その日の都は、暴風が吹き荒れて、何とも騒々しい晩だった。
夜空を焦がして東南の方角から火の手が上がったのは、午後八時過ぎ。と見るや、火は、あっというまに西北の方へと燃え広がっていった。
そうなると、もはや手の打ちようがなかった。
人々は、ただただ、無我夢中で逃げまどうばかりだったのだ。
延焼し続ける火は、やがて、大内裏の南面中央にそびえる朱雀門をはじめ、大極殿・大学寮・民部省といった大きな建物を次々と飲み込んでいった。
そして、たった一晩のうちに、みんな灰になってしまったのである。
火元は、樋口富の小路らしいということだった。舞楽芸人を宿泊させた仮設小屋から出火したようだ。
火は、吹きすさぶ南東の風にあおられて燃えさかり、扇をひろげたような末広がり状に拡散していった。
火元から遠く離れた家では、住人が煙を吸って激しくむせ返っていた。
一方、火元に近い家では、炎が激しい勢いで空から降ってきて地面に吹きつける恐怖に見舞われ、そのあたりにいた人々は、誰も彼もが人心地をなくした。
灰が空高く吹き上げられ、それが燃えさかる火に照り映えて、あたり一面が不気味な紅蓮に染まり、人々は地獄の業火を連想した。
激風が、間断なく、焔の塊りを吹き飛ばした。
ちぎれた焔は、空中を一、二町(一町=約109メートル)ほども飛んで、地上に落下すると、あたりをたちまち炎上させた。
不運にもそこに居合わせた人たちは、まったく生きた心地がしなかったに違いない。
都の三分の一を焼失
悲惨の一言、大火の傷跡
~都の中、三分が一に及べり~
大火の続報、詳細版である。
安元三(1177)年に都を襲った大火は、聞くも無残、語るも悲惨、思い出すさえ身の毛がよだつ。そう表現するしかなかった。
煙を吸って呼吸困難に陥り、その場にばったりと倒れ込む者、炎に巻かれてたちまち命を落とす者など、被害者が後を絶たなかった。
たとえ身ひとつでかろうじて逃げることができた者であっても、火の回りが早かったために、家財道具一つ運び出すこともできず、呆然自失した者も多かった。
人々が「七珍万宝」と呼んで、命の次に大切してきた金も銀も、瑠璃も瑪瑙も、珊瑚も琥珀などのお宝も、ことごとく灰燼に帰し、被害総額がいかほどに達したかを計算できないほどだった。
私の調べでは、この安元の大火で、十六もの公卿の屋敷が焼失した。
この数字だけからでも、被害の甚大さのおよその想像はつくだろうが、これはほんの一端にすぎない。
公卿邸以外の家屋で焼失した戸数となると、数が多すぎて途方に暮れてしまう。
人口十万人を擁した平安京の家々の、実に三分の一が、後世、「安元の大火」と呼ばれる、この大火事で焼失したのである。
死者も少ないわけがなく、男女合わせて数千人を下らず、牛馬などの家畜は、どれぐらい焼け死んだか見当すらつかなかった。
いつの時代にもいえることだが、人のやること、なすことに愚挙はつきものである。
だから、ある程度は仕方がないと目をつむれなくもないが、それにしても、愚の骨頂としか思えないのは、平安京が、過去にこの種の天変地異を繰り返してきた危険がいっぱいの土地柄だということを知っていながら、そんな所に、なけなしの金をはたいて、あれこれと悩みながら、わが家を新築する連中が後を絶たないことだ。
一体全体、何を考えているのか。
都のどこに家を建てたらいいかなどと、あれこれ思い悩む者がたくさんいるというのは、どうにも、お粗末すぎやしないか。
そういうしかないのである。
疾風怒涛の竜巻、襲来
「神仏の諭し」の噂
~大きなる辻風起こりて~
信じがたい天変地災に見舞われたこともあった。
治承四(1180)年の四月頃、“辻風”が中御門京極のあたりで発生、ごうごうと不気味な唸りをあげて六条あたりまで、まさに疾風怒涛の勢いで一気に吹き抜けたのである。
辻風は、十字路を意味する「辻」という言葉からわかるように、特別なものではなく、常日頃にも十字路あたりでしばしば見られる渦巻状に吹く突風で、「つむじ風」とか「旋風」とも呼ばれている。
だが、治承の辻風は、そんなレベルを大きく超えていたので、「竜巻」と呼ぶのがふさわしく、その威力たるや、すさまじいの一言だった。
なにしろ、突風が三、四町(約三、四百メートル強)ほど通過する間に、家という家がことごとく叩き壊されたのである。ぺしゃんこに押しつぶされたもの、屋根の端に横に渡した桁と柱だけの姿にされてしまったものなど、見るも無残としかいいようがなかった。門の上につけた屋根が四、五町(約四、五百メートル強)も離れたあたりまで吹き飛ばされるとか、垣根が丸ごと吹き払われて隣家にへばりついていたといった被害は、それこそ枚挙にいとまがない。
かくも筆舌に尽くしがたい残虐無比な爪痕を残した竜巻だったから、人々が大切に保管していたお宝にも情け容赦はしなかった。どの家のお宝も、あれよあれよという間に空の彼方へと舞い上がって、行方知れずとなり、何一つ残らなかった。屋根を葺いた檜皮や板の飛ばされようもひどく、まるで真冬の木枯らしに弄ばれる木の葉みたいだった。
竜巻は、塵を巻き上げたから、どこもかしこも煙が立ち込めたようになった。何も見えなくなるわ、耳をつんざく大きな音まで鳴り響くわで、話す声すら聞き取れず、あの世の地獄に吹き荒れるという“業の大暴風”でさえ、そこまではいかないと思えるような、この世の地獄だった。
被害は、家屋だけですまなかった。必死に家を守ろうとして大けがをし、不自由な体になってしまった気の毒な者も少なくはなかったのだ。
竜巻は、暴れるだけ暴れると西南の方へ去り、都にもとの静けさが戻ったが、後に残ったのは、たとえようのない悲痛な思いだけだった。
辻風そのものは決して珍しくはないが、誰の思いも「これほどの規模のものは信じがたい」という言葉に集約され、「神仏が何かを諭しているのかもしれない」との噂も少なくなかった。実際、この辻風から二週間後に、天下を揺るがす大事件(平清盛による福原遷都)が勃発することになるのだ。
恐怖の「元暦の大地震」
衝撃のM7.4
~土裂けて水湧き出で、巌割れ~
これは養和の飢饉と同じ頃だったと記憶している。想像を絶する巨大地震に見舞われたことがあったのだ。元暦の大地震(元暦二〈1185〉年)である。
山は崩れて川を埋め、海は激しく水嵩を増して逆巻き、陸地を浸した。
大地は裂けて水を噴き出し、岩は割れて谷へと転がり落ちた。
浜辺近くの海を行く船は木っ端のように波間に漂い、道を行く馬という馬は足の踏み場を失って、いなないた。
都の神社仏閣は、あるものは崩れ、あるものは倒れ、無傷だったものはなかった。
塵や灰が、煙かと見まがうような勢いで、空高く舞い上がった。
地割れや家の倒壊する音はすさまじく、雷鳴さながらだった。
家のなかで、おろおろしていたら押しつぶされそうになり、あわてて外へ飛び出したら、足元の地面が裂けた。
安全な場所は空しかなかったが、羽がないから飛んで逃げることもできない。龍なら雲にも乗れようが、龍ならぬ身にそんな芸当ができるわけもない。
世の中に恐ろしいものは数あるが、何が恐ろしいといって地震を超えるものはない。そう痛感したのだった。かつて経験したことのないそのような激震は、しばらくすると止んだが、余震が繰り返し襲ってきた。
平生なら驚くような揺れの地震が、毎日二、三十回くらいは起きた。
大震災から十日・二十日と過ぎて、ようやく揺れる間隔が間遠になったが、それでも一日に四、五回とか二、三回、もしくは一日おきとか二、三日に一回になり、そういう状態が三月ばかりも続いたのだった。
* * *
古代インドの宇宙元素「地・水・火・風」を「四大種」といっている。
水・火・風は常に害を及ぼすが、大地は異変を起こさないとされてきたが、そうではなかった。斉衡年間(854~857年)の大地震では、東大寺の大仏の御首が落ちるなど、不吉な事例も過去になくはなかったが、今回の大地震の比ではなかった。
人々は、大地震が起きた当座こそ顔を合わすたびに、この世の何をやっても無駄だと語り合った。そうすることで多少は心の憂さも薄らいでいった。だが、年月が経つと、そのことを口にする者すらいなくなった。
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<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)