独り奏で、独り歌う~鴨長明に学ぶ無理をしない生き方|『超約版 方丈記』(4)
思う存分、楽器を弾き歌う
乾いた心を潤わせるために
~独り調べ、独り詠じて~
ある朝のことだったが、漕ぎ進む舟の立てる白波がたちまち消えてしまう光景がふと頭に浮かび、はかなく感じることがある。
そんなときは、条件反射のように、万葉歌人の満沙弥(沙弥満誓/大宰府の造筑紫観世音寺別当)の歌を連想する。
世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟の跡の白波
(世の中を何に喩えたらよいだろう。明け方の港を漕ぎ出た舟が立てる白い航跡がすぐに消えてしまうように、この世ははかない)
歌が浮かぶと、いても立ってもいられなくなり、宇治川沿いに岡の屋まで足を運ぶことになる。
そして私は、川を行き交う船を眺めながら、満沙弥の雰囲気にどっぷりと浸るのである。
また、風が桂の木の枝葉を吹き鳴らしたある日の夕方には、唐代を代表する詩人白楽天(白居易)が左遷された地でつくった長編叙事詩「琵琶行」の出だしが頭に浮かぶこともあった。
琵琶行は、玄宗皇帝と楊貴妃のことを歌った「長恨歌」と並ぶ白楽天の代表作でもある。
その代表作が浮かべば、その詩をつくった尋陽の光景も、自然と瞼の裏に浮かんでこようというものだ。
そうなると、勝手に心が騒ぎだし、琵琶の名人源都督(長明の琵琶の師の父源経信)にならって、琵琶を奏でてしまう。
そのうち、どんどん興が乗ってきたら、次の行動に移る。松を鳴らす風の音に呼応して、琴で「秋風楽」を奏でるのだ。
何度か繰り返し演奏して満足したら、今度は琵琶に移る。流れる水の音に招き寄せられるようにして、琵琶で秘曲「流泉」を操るのだ。
そういうことを、私はしばしばやってきたので、習慣といっても、さしつかえないだろう。
若い頃は毎日のように爪弾いていたが、今は時折楽しむだけなので、以前のようにうまくは弾けないが、人の耳を喜ばせようとして演奏しているわけではない。たった独りで奏で、たった独りで歌うのは、自分で自分の心を慰めるのが目的だから、どうということはない。
ただ、それだけのことである。
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<本書の目次>
第一章 天災と人災
第二章 方丈の庵に住む
第三章 いかに生きるべきか
「方丈記」原文(訳者校訂)
解説
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