「奇想の絵師」の才能が開花した地へ|南紀と長沢芦雪(和歌山県串本町)
串本町 本州最南端へ
江戸時代後期の天明の世、ひとりの絵師が本拠地である京都をあとにして紀伊半島の南部へと旅に出た。その名を長沢芦雪。写生を重視した円山派の祖、円山応挙の門弟である。
旅の目的は届け物だった。本州最南端の地、串本町の無量寺は地震による大津波で流失する悲運に遭ったが、およそ80年後に当時の住職だった愚海和尚が再建した。愚海は応挙と長年の親交があった。ずっと再建に奮闘する愚海に応挙はつねづね言っていた。
「あなたの寺院が完成したときは、前途を祝い必ずわたしの作品を届けます」
その日が来たのだ。約束通り仕上げた作品だが、多くの門弟を抱え、高齢でもあった応挙は出向くことができなかった。そこで名代として指名されたのが芦雪だった。芦雪は秋に出発する。届け物だけでなく、現地でしかできない制作も委ねられていたのだろう。南紀を行脚し、いくつもの寺をはじめ、知り合った人びとのために自らの作品を多く描いた。気づけば、年が改まり滞在は半年に及んだ。
光あふれる地
芦雪の南紀を辿ってみよう。
その旅にあたり福田美術館(京都市)の学芸課長・岡田秀之さんにご教示を仰いだ。江戸絵画が専門の岡田さんは芦雪の追跡と研究に情熱を注ぐ人だ。平明な言葉で深い意味を明らかにする。道中で多くを教わった。岡田さんは言う。
「応挙のもとにはたくさんの才能がひしめいていました。そうしたなかで、襖絵といった大きな作品をあまり経験していなかった芦雪をあえて派遣したのは、その門弟の優れた資質を見抜いていたのでしょう」
芦雪が訪れた串本に着いた。
本州最南端といわれると、なるほどと納得する。降る陽ざし、目にする植生がいかにも南国だ。そして紀伊半島の尖った先が海に迫り出している地だから、開放感はたっぷりである。
気候風土の異なる京都からやってきた芦雪は、そして紀州といえば熊野、神の住む鬱蒼とした森を思っていたかもしれない芦雪は、この陽ざしに、海の輝きに度肝を抜かれたのではないか。きっと何かをつかめそうな予感で高揚したことだろう。
令和の無量寺を訪ねる。
静かな住宅地のなかにある趣き深い寺だ。境内はきれいに整えられている。見るからにベテランらしい庭師がとても手ぎわいい仕事をしている。と見惚れていると、岡田さんと親しいあいさつを交わした。庭師ではなく東谷洞雲住職だった。
さっそく芦雪を鑑賞させていただく。本堂に、「虎図」と「龍図」が向かい合うように配置されている。実際の作品は1990(平成2)年、境内に建てられた串本応挙芦雪館収蔵庫で管理されており、本堂にあるのは複製だがきわめて精巧だ。
虎も龍も力強い。とりわけ惹かれるのは虎だ。訪れる前に何度も写真でお目にかかっていたが、こうして6面の襖で実際に相対する勇ましい姿は強烈だ。大きな爪、くびれた腹、長い後ろ足が躍動感に富む。それでいて睨む顔の愛嬌のあること。ずっとそばにいたくなる目と鼻とヒゲだ。
「以前、小学生たちをご案内したことがあるのですが、その翌日に年配のご夫妻が見えて……」
東谷住職は言う。
「最近この地に移ってこられたそうなのですが、きのう孫が家に帰ってくるなり、お寺にすごい絵があるよと目をキラキラさせて報告するものですから、と」
おじいちゃんおばあちゃんもさっそく訪ねてきたのだという。なるほど、今にも飛びかかりそうなあの足と目と鼻とは一瞬で少年の心に棲みついたのだ。
収蔵庫の完成よりおよそ30年前に誕生したのが串本応挙芦雪館展示室である。5室に分かれ、応挙、芦雪の襖絵以外の作品をはじめ近世絵画が展示されているだけでなく、串本町から出土した土器や石器など考古資料も収蔵する。
大画面ではなく、比較的小さな芦雪作品と立ち話するように味わえる。ちょっと長い時間立ち話してしまったのは「唐子遊図」だった。子どもたちの群像。よく見ればひと癖ありそうなのも気の弱そうなのも。目が離せなくなる。
旅人=岡田秀之 文=植松二郎 写真=阿部吉泰
──来年、2024(令和6)年に生誕270年を迎える長沢芦雪の足跡を辿る旅は、このあとも続きます。なぜこの地で芦雪の才能が花開いたのか、その理由と人物像に迫る本誌特集記事をぜひお楽しみください。力強い中にもどこか愛嬌のある芦雪の絵画を数多くご覧になれる保存版です!
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