上諏訪に行けば、あの笑顔に会える|吉田重治(kamebooks代表)
年に数回訪れている街がある。何の縁もなかった街。
きっかけは、松本英子さんの漫画『荒呼吸』*。初めて訪れたときは、『荒呼吸』をガイドブックのように持って、上諏訪の街をただただ歩いた。漫画に出てきたサボテンを見かけて思わず手を伸ばしてしまい、棘が指にささって、上諏訪で刺抜きを買うハメになったこともある。
まったく知らない街を知らないまま歩いていた。誰も知らない。誰にも知られていない心地よさを味わいながら。そういえば、当時の諏訪湖には亀の遊覧船があった。亀に乗って、諏訪湖を遊覧する。亀が好きな僕には、それだけでも大満足。
上諏訪駅の近くには、甲州街道沿いに5軒の酒蔵が建ち並んでいる。その五蔵の日本酒が愉しめる「上諏訪街道の呑みあるき」も年に2回開催されていた。『荒呼吸』で知り、いつか行きたいと思っていた。念願かなって行ってみると、駅から降りた時から楽しい。呑み歩き用のお猪口をもらい、酒蔵をめぐる。首から下げられる自作のお盆の上に酒の肴を乗せている人もいた。それぞれの工夫が素敵で、次は僕も作ってみようと誓った。みんなが酔っ払って、へらへらと笑っている。少しぶつかっても、へらへらと謝り、へらへらと許されていく。なんとも心地よい祭り。コロナ禍で中止されていたが、この秋ようやく再開された。喜ばしい。
また、今は開催されていないイベントに、酒蔵で本を売る「くらもと古本市」があった。酒を呑みながら、本を選ぶことができる。楽しいに決まっているようなイベント。
そこで、ある酒蔵の杜氏さんと出会う。彼は少し不自由そうな体で日本酒を注いでくれた。その日本酒はすっと体に入ってきて、美味しいなぁと自然に思えるような味で、すっかりお気に入りの日本酒になった。彼と本の話題になり、漫画『もやしもん』の話をした記憶がある。また、“発酵学の父”とも称される坂口謹一郎さんの本を教えてもらった。上諏訪に行く度に、お土産にその酒蔵の日本酒を買って帰っていた。
お酒を買えた喜びを味わいながら、少しだけ気がかりだったのは、その杜氏さんの体が少しずつ不自由になっている気がしたこと。何となく、検索したらALSという難病だった。信じられなかった。病気のことを知って、どんな顔で会ったらよいのだろう? と少し不安になった。でも、彼もそのご家族も、会うと笑顔で迎えてくれる。僕の不安を吹き飛ばすような、素敵な笑顔で。
今でも、呑み歩きには参加している。最初はお酒が目的で行っていたけれども、今はその杜氏さんたちに会いたくて行っている気がする。上諏訪に行けば、あの笑顔に会える。
知らない街へ行く楽しさが、少しずつ知っている街へ行く楽しさに変わっていく。少しずつ好きな場所が増え、好きな人が増える。少しずつ上諏訪という街に溶け込んでいけたら嬉しい。
文・写真=吉田重治
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