川上とこの川しもや月の友|芭蕉の風景
川上とこの川しもや月の友 芭蕉
小名木川は運河
掲出句は芭蕉没後刊行された俳諧撰集『続猿蓑』に収録されている。『続猿蓑』掲載の句は、門弟支考の助力を得ながら、芭蕉自身が生前選句したと考えられている。「月」という季語は「雪月花」の内の一つ。季語の世界を代表する重い季語である「月」を用いた芭蕉の自信作であった。
前書には、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」とある。元禄六年陰暦八月十五日、名月の夜、芭蕉は、芭蕉庵から小名木川に船を出す。深川の外れ、五本松というところで、船を止めて、川の上で、月を楽しんだ。
「月の友」とは、月を楽しむ風雅の友の意。句意は「川上と川下に月の友がいる。二人は直接会ってはいないが、一筋の川に沿って、ともに名月を眺め、思い合うことで、会う以上に思いが通じ合っている」。
梅雨明け近い一日、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄新宿線住吉駅下車。地下鉄出口を出ると、梅雨の晴れ間で暑い。芭蕉の句を訪ねる旅を長く続けているが、このような繁華な場所を歩くのは珍しいことである。人通りも交通量もかなり多い。四ツ目通りを十分程、南下する。大きなスーパーマーケットがあって、ホームセンターがあって、小名木川に出る。
橋の名は小名木川橋。橋の側面には、「五本松」と打ち出した金属板と、広重筆の浮世絵「名所江戸百景」の「小奈木川五本まつ」の図をレリーフとしたものが、はめ込んである。広重が描いた「五本松」は川面へと張り出す立派な松である。芭蕉はこの松越しに、名月を楽しんだわけだ。
今日は深川在住の友人、S君に案内を頼んだ。彼によれば、小名木川は自然の川ではないそうだ。徳川家康が千葉県行徳産の塩を江戸に運ぶために、隅田川と旧中川とを結んで作った運河だと教えてもらう。運河なので、流れが激しくない。それで、芭蕉は月下の船遊びをゆっくり楽しむことができたのだ。橋の近くに木材を積んだ船が停泊していた。今でもこの川の運輸機能は生きている。現在は水位を調整する閘門が設けられているため、水が動いているようには見えない。
芭蕉は旧中川の方向を川上、自分の庵があった隅田川の方向を川下と考えているのだろう。あるいは、川上も川下もない運河において、「川上とこの川下や」と詠むことに、俳意、おもしろみがあったのかもしれない。
友二人を結ぶ光の線
掲出句の「この川下」の「月の友」とは芭蕉自身のことである。それでは、川上の友とは誰か。評論家山本健吉によれば、門弟の桐奚か利合、あるいは葛飾に住んでいた友人、山口素堂かもしれないという。月の夜、船で友を訪ねるのは風雅なことだ。が、友だちをいたずらに騒がすことはせず、それぞれ静かに月を見て、酒を酌んで、友を思うというのはもっと風雅なことである。芭蕉はあえて友を訪ねないことを選んだ。友情のきわみが描かれていると言っていい。唐代の詩人、白楽天の詩句、「雪月花の時最も君を憶ふ」をまさに踏まえた一句なのだ。掲出句の景を天から見下ろすと、月の光を反射している一筋の川が見える。その光の線が二人の友人をつないでいることになる。
五本松は小名木川北岸、かつて丹波綾部(現在の京都府綾部市)藩の九鬼家の下屋敷の庭から生えていたという。明治になって、屋敷跡地にセメント工場ができ、工場の煤煙のために、名木は弱り、ついには枯れてしまった。橋のたもとに、失われた五本松を懐しんで、黒松が植えられている。まだ小さいが、これから名木に育っていくのだろう。木の肌に触れてみると、夏の日に照らされて、熱くなっていた。
河岸のコンクリートの上に、燃え残りの線香をたくさん見つけた。S君によれば、この川は関東大震災、東京大空襲の惨事の場所でもあったとのことだ。大火に追われてこの川に飛び込み、命を失った多くの方がいたのだ。線香は遺族の方が新暦の盆に手向けたものであった。
川の岸には蔦が茂っている。葦も青々と育っている。緑が豊かである。河辺を白鷺がゆっくりと歩いている。川を見ているかぎりでは、都会にいることを忘れてしまうほどだ。S君はこの川で釣りをすることもあるという。運がいいと、ハゼやスズキが釣れるとのことだ。
深川は芭蕉が庵を結んだ地ということで、小学生の俳句大会が開かれているそうだ。S君はPТAの副会長として、小学生を連れて芭蕉生誕地の伊賀上野を訪ねて交流会を行ったこともあるという。芭蕉は現在もひととひととを結びつけている。
黒松の木肌灼けたり小名木川 實
風に消え線香のこる夏の川
※この記事は2008年に取材したものです
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