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数ならぬ身となおもひそ玉祭り|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

数ならぬ身となおもひそ玉祭り 芭蕉

亡くなった親しい女性への句

 元禄七(1694)年旧暦六月、京都嵯峨野の落柿舎に滞在していた芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵に留守の間住まわせていた寿貞じゅていという女性の死を知り、大きな衝撃を受ける。江戸の知人である猪兵衛いへえから書簡をもらったのである。

 いつも盆に故郷の伊賀上野に帰るとは限らない芭蕉だが、兄半左衛門から今年は帰るように手紙で促されて帰郷することとした。兄を始めとする親戚とともに、松尾家の菩提寺の愛染院あいぜんいんで盆の行事を営んだ際、亡くなった寿貞のことを思い出したのだろう。掲出句が詠まれるのである。

 俳諧撰集『有磯海ありそうみ』所載。「尼である寿貞が死んだと聞いて」という意味の前書がある。すでにこの世のものではない女性に呼び掛けている句なのである。寿貞がどういう女性であるかは、後述する。句意は「とるにたらぬご自身と思ってはなりません。この盆の折にあたって、あなたのご冥福を祈ります」。芭蕉が門弟以外の女性、それも亡くなった女性に贈った句というものは、これ以外に知らない。

 関西本線伊賀上野駅で伊賀鉄道伊賀線に乗り換え、上野市駅下車。梅雨晴れで、ちょっと蒸す午後である。駅前の観光案内所の小さな建物がなくなってしまっている。駅員の方にうかがってみると、駅前に新しいビル「ハイトピア伊賀」ができて、その中に入ったとのことだ。新しい観光案内所の女性に、現在地から愛染院までの道筋を絵地図上に赤鉛筆でなぞってもらう。上野郵便局の前を通る大通りを東へと進むのだ。愛染院は芭蕉生家のごく近く、生家の一筋東を南に折れたところにある。

 愛染院は真言宗豊山派の寺で、本尊に愛染明王を祀っていることから、この名がついた。この寺には芭蕉の遺跡、故郷塚ふるさとづかがある。芭蕉の遺骸は自身の遺言により大津の義仲寺に葬られているが、芭蕉の死の知らせを聞いて義仲寺に駆けつけた伊賀の弟子土芳とほう卓袋たくたいが形見として遺髪を持ち帰り、この寺の松尾家の墓所に納めた。これが故郷塚である。

 茅葺き屋根の小さな覆堂の下に、白々とした花崗岩の石碑が据えられてある。中央に「芭蕉桃青法師」、右に「元禄七甲戌こうじゅつ年」左に「十月十二日」と三行に刻まれている。芭蕉の名と、亡くなった年と忌日である。読みにくいが、たどれる。文字は芭蕉の高弟嵐雪らんせつの書。故郷伊賀の芭蕉の墓なのである。紅花が手向けてあった。芭蕉が『おくのほそ道』の旅の際、山形の尾花沢付近で見た花である。

まゆはきをおもかげにして紅粉の花

芭蕉の妻か、甥の妻か

 さて、寿貞とは誰か。風律ふうりつという俳人が残した『小ばなし』(宝暦〔1751〜1764年〕ごろ成立か)という書に、蕉門の野坡からの聞き書きとして、寿貞は芭蕉の若い時の妾、内縁の妻的存在であったという記述が見える。芭蕉が女性と暮らした時期があったということを思うと、芭蕉の人生に、にわかに彩りが加わるような気がする。ぼくが愛読する『芭蕉全発句』の著者、評論家の山本健吉も、寿貞が芭蕉の妻であったとして掲出句を鑑賞している。

 寿貞に関して、俳文学者のこん栄藏えいぞう、田中善信の二人が論戦を繰り広げていた。今説は、寿貞は芭蕉の甥である桃印とういんの妻であったというのである。寿貞は桃印と暮らし、子どもも残しているようなのだ(『芭蕉伝記の諸問題』新典社・平成四年・1992年刊)。

 田中説は、驚異的である。寿貞はもともと芭蕉の妻だったが、桃印と駆け落ちをして、桃印の妻になったというのだ。それが、芭蕉の日本橋から深川への移住の原因になったとも書かれている(『芭蕉二つの顔』講談社・平成十年・1998年刊)。芭蕉の人生が、ドラマチックなものになってくる。

 ただ、『おくのほそ道』の旅の後、江戸に戻ってきた芭蕉は、労咳ろうがい(肺結核)をわずらった桃印を引き取り看病をして、結局その末期を看取ることになる。また、元禄七年、故郷に生涯最後の旅に出た後の芭蕉庵に芭蕉は寿貞を住まわせている。芭蕉を裏切って駆け落ちした二人だとしたら、芭蕉はこの二人をここまで愛することができただろうか。またひとたび芭蕉を裏切った二人だとしたら、ここまで芭蕉に甘えることができただろうか。

 寿貞とはどういう人なのか。現段階ではわからない、というしかないだろう。

 寿貞の死を知らせてくれた猪兵衛に返信する際、芭蕉は「寿貞は不幸な人でした。哀れさはことばでは言い尽くすことができません」と書いた。生前どういうかかわりがあったかはわからないが、感謝や敬愛や謝罪など深い思いが流れているのをこの句に感じないわけにはいかない。

 ぼくが滞在している間、愛染院には誰も詣でる人がいなかった。墓の上を渡って揚羽が飛んできた。

故郷塚紅花の束生けてあり 實
あふられて揚羽高しよ墓の上

※この記事は2013年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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