芭蕉「忍者説」の真相に迫る|対談|小澤實×磯田道史#1
曾良は幕府の巡見使だった!
磯田:小澤さんとは、五年ぐらい前に「百点句会」で初めてお会いしたんですよね。
小澤:「百点句会」は銀座の老舗の集まり「銀座百店会」が主催する歴史のある俳句会です。久保田万太郎、中村汀女、水原秋桜子らが参加していたものがまだ続いているのです。そこに磯田さんがゲストでいらして、歴史に関するとても面白い話をしてくださった。この人とは友達になりたいなと強く思いました。
磯田:小澤さんは、『芭蕉の風景』で芭蕉忍者説についても書かれていて、嬉しく拝読しました。世間の人は、したり顔で「芭蕉が忍者なんて、いいかげんな話だ」とバカにするのは簡単ですが、歴史の深みをみなくては。芭蕉の句には「猿蓑」をはじめ、猿を詠んだものが多くありますが、たとえば、猿と忍びの関係を追ってみると、なかなか、これが深いのです。小澤さんと、句から芭蕉に迫りたいと思っていました。
初しぐれ猿も小蓑を欲しげなり 芭蕉
小澤:ありがとうございます。確かに猿を詠んだ句はけっこうありますね。猿というのは、当時は忍者の暗喩になっていたんですか?
磯田:猿を実際に諜報活動に利用したり、猿回しに扮して各地を偵察したり、猿と忍者は関係性が深いですね。あるいは、忍びの別称に軒猿という言い方があります。猿は柿を盗みに行くときも、一匹だけが軒の上にいて、周りを伺い、人間がやってきたら警告を発して、一斉に捕まらないように逃げるんです。ある時期まで「猿」という言葉に、忍びの像が重なっていたのは間違いではありません。忍びは猿の皮をまとい、猿に化けて、忍び込んだと伊賀者の忍術書『忍秘伝』にもあります。
小澤:面白いですね。今後、新たな目線で句を読み解けそうです。『猿蓑』の歌仙の芭蕉の付句ですが、「さる引の猿と世を経る秋の月」という句があります。まさに「猿回し」を詠んでいます。
僕は、曾良*の旅日記や書簡と『おくのほそ道』を照らし合わせて論じている本を読んで、芭蕉の旅には、忍者というか隠密の要素があるのではないかと疑うようになりました。
磯田:芭蕉と忍者を考える上で、私が疑って調査は必要とみているのが、芭蕉本人と河合曾良、杉山杉風*の三人です。隠密的な面が一番はっきりしているのは曾良ですね。
小澤:曾良は、江戸幕府の巡見使として訪れた九州の壱岐島で客死しています。巡見使は、江戸幕府が将軍の代替りに諸国を視察させるために派遣した役人ですよね。
磯田:巡見使は、幕府の公的な情報収集係なので、広義の隠密と言えます。しかも、曾良は長年書き綴ってきた旅日記を留守宅には置いておかず、昔のものまで持ち歩いていました。そして、その遺品は遺族に直送されず、杉風のところに入っている。父方の家系が絶えていたので、あとで杉風から諏訪にいた母方の親戚に送られたことがわかっています。つまり、曾良と杉風は非常に親密な関係です。曾良の死後、彼の遺品とくに旅日記は、一旦、杉風に委ねられています。幕府巡見使の機密事項が書かれている可能性もある書類はまず赤の他人の杉風に送られたのです。
さて、曾良の遺した記録は、全て遺族に送られたのでしょうか。機密部分は杉風の手元で処分されていないでしょうか。想像が膨らみます。
謎めいたパトロン、杉風
小澤:杉風は、江戸に芭蕉が出てきて数年後に弟子となり、それから亡くなるまで芭蕉を支え続けたパトロンの一人です。裕福な魚商だったことが知られていますが、単なる魚屋ではなかったんですね?!
磯田:当時の魚屋というのは 、大名屋敷・武家屋敷の台所に入り、調理までしました。だから、魚屋はライブな内部情報にアクセスしやすい。芭蕉も元は津藩藤堂家の分家の台所役人です。しかも、魚屋の杉風は「耳が聞こえない」ともされるのに、鳥の鳴き声を詠んだ俳句をいくつも残しています。不思議ですよね。やはり何か裏があるような気がする。学者として学問的には、断言できませんが、趣味的に、これを考え調べる分には楽しいものです。
小澤:確かにパトロンというだけではないものを感じますね。深川の芭蕉庵は杉風の寮でしたが、そこから推察できることはありますか?
磯田:芭蕉庵のあった万年橋は、隅田川と小名木川が合流するところで、芭蕉庵ができる前には川船番所*が置かれていました。江戸に入る船がみんな通るので、あそこで荷物を改めたわけです。いまの空港や港の税関ですね。
小澤:有名な「古池や」の句は、あそこで詠まれたものです。もともと杉風の生簀だった池があり、その番小屋に手をいれたものが芭蕉庵のはじまりといわれています。
古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉
磯田:河口に近く、淡水と海水が混じり合う汽水域だから、川の魚も海の魚も生簀に飼っておける。魚を扱っている杉風にしてみればいい場所であったろうし、船がやってくるから情報も集まる。俳諧など寄り合いを開くにもいい場所です。ただ、当時の深川は開発されたばかりで、掘っても塩辛い水しか出ないし、水道もなくて、水は買わなきゃならなかった。しかも、台風や高潮ですぐ氾濫・浸水する、水害と隣り合わせの場所でした。
小澤:芭蕉は江戸に出てきた当初、水道工事関係の仕事をやっていました。鄙びた風景を好んだとはいえ、水の便はいいところに住みそうなものです。
磯田:芭蕉は水道工事人だったのに、水道もない、船の荷物を改める場所の、魚屋さんの持ち家に住まわせてもらっていた。そこに幕府巡見使の係官になる曾良のような男が出入りして、俳諧が営まれていた。その事実こそが、当時の実態として面白いじゃないですか。
俳諧師は、隠密の職業?!
小澤:芭蕉忍者説も納得せざるをえませんね。とはいえ、芭蕉が歌舞伎に出てくるような黒装束で手裏剣を投げたり、早く走ったりということはないですよね。曾良のような情報収集役が「あそこの大名どう?」などと言い合っている席に芭蕉もいるというイメージです。芭蕉は、伊賀の人だから疑われている面もありますが……。
磯田:尾張藩に「用間加條伝目口義」という忍者から聞き取った諜報の教科書が残っているんですが、伊賀や甲賀の忍びが語った部分に、「隠密になるためには芸を身につけてください。特に俳諧師」と書いてあるんです。芭蕉がいろんなところへ旅していた元禄時代に、 芸を身につけると尊敬されて、先生、師匠と呼ばれて、人の家の奥まで入ることができて、内情を得られるからと書かれているんです。
小澤:むしろ俳諧師という仕事の方にこそ、疑う要素があるということですね。その隠密がなるべき職業は、俳諧師のほかに何がありますか?
磯田:俳諧師の前は連歌師です。室町時代の連歌師、宗長*の日記が岩波文庫で活字化されています。読んでいたら「掛川城の堀は深い」なんて書いてあってびっくりしたんです。
宗長は駿河から掛川に寄り、浜松の井伊谷に行って、連歌をしている。連歌師は当時の有力武家の間を飛び回っています。連歌師の前で話せば、当然それは他家にも伝わる。戦国大名は戦争の前に、連歌師にたくさんお金を包んで、こちら側の情報は渡さずに、向こう側の情報を取ってこさせたり、噂をまいたり、という情報戦もあったでしょう。戦意高揚の戦争広告のような連歌ものこっていますから。
あとは絵師ですね。写真がない時代ですから、敵情視察したら絵に描けないといけないわけです。隠密の任にあるものが絵師の修行をすることもあっただろうし、逆もあったことでしょう。俳諧師、連歌師、役者類、絵師という「家芸人」「芸者」という文言で江戸時代の武士の文書に出てくる者たちは、ある程度、情報収集・発信の役目を持っていただろうと思います。
小澤:『おくのほそ道』の仙台で、芭蕉は画工加右衛門と交友を結びますが、俳諧師と画工の友情はあやしいです。宗長の師である宗祇も漂泊の歌人ですし、芭蕉、宗祇とともに三大漂白歌人に数えられる西行はどうなのか……高名な絵師にも旅を重ねた人がたくさんいます。どんどん気になってきますね。
磯田:一方で、忍者の代名詞である伊賀者・甲賀者というのは何なのかというと、火薬や武器、毒薬などの使用に長けていて、射撃や暗殺、放火などの技術を持っている人たちです。それから、城乗といって、超人的な体力で城壁や川を越えて相手の陣地に最初に入り、中の音を聞いたり、情報を収集したりして、生きて戻ってくる。
隠密の中の狭い部分が伊賀者・甲賀者のような特殊な技術を持った裏の情報収集の忍びで、その他に、曾良がやっていた巡見使など表の情報収集の検査官もいます。連歌師や俳諧師といった文学関係者が便利に使われていたし、本人たちも自覚的に関わっていた可能性が高い。江戸期の「隠密」とは、そういう広義のもので、多重構造だったと考えています。
小澤:純粋な芸術家としての俳人という見方は、ちょっと近代的な思考に毒されているのかもしれないですね。
磯田:俳諧という文芸の道を歩みながら、それを支えてくれるパトロンのためにいろんなことをやっていたということだと思います。
▼本書のお求めはこちら
▼こちらで『芭蕉の風景』の内容の一部が読めます!
▼こちらに『芭蕉の風景』をめぐる対談記事をまとめています!