小泉八雲とセツが描いた日本の民話(島根・松江)
第1章 小泉セツの生き方に触れる
武家屋敷が軒を連ねる松江の塩見縄手には、セツと八雲が暮らした家、2人の貴重な展示品が並ぶ館があります。セツとはどんな人だったのでしょうか。
鬱蒼とした森の中、薄紙で作った舟に硬貨を一枚載せ、鏡のように澄み切った池の水面に、静かに浮かべる。若き小泉セツと2人の女友達は、その舟の様子をじっと見守っていた。池に浮かべた舟が早く沈めば早く縁に恵まれる。近くで沈めば近くにいる人と結ばれる──これは、松江の南部に位置する八重垣神社に古くから伝わる縁占いだ。
八重垣神社は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治して稲田姫命を救い、夫婦になったという伝説が残る場所で、今でも良縁を願う人々から厚い信仰を集めている。友達2人の舟は、すぐに近くで沈んだ。ところが、セツの舟だけはなかなか沈まず、池の端のほうまで行ってようやく沈んだ。この結果に、セツは肩を落としたのだろうか。のちに、異国から来た英語教師と結ばれることを、まだ彼女は知る由もなかった。
「セツは、伴侶としてだけでなく、八雲の創作に欠かせない存在でした。八雲はセツに日本の話を求め、セツは自分が知っている物語や体験を、八雲に語りました。八雲は気に入った話を何度も何度もセツにせがみ、物語の世界に入り込んで、母語に綴り直したのです。あの『耳なし芳一』や『雪女』もセツの存在なくしてはありえなかったでしょう」
教えてくれたのは、セツと八雲のひ孫にあたる民俗学者の小泉凡さん。今回のセツと八雲をめぐる旅の案内人だ。今から130年前、現在よりはるかに高い言葉と文化の壁を乗り越え、いかにしてセツは八雲の理解者となったのだろうか。
青年時代のセツを知る 小泉八雲記念館
セツの人物像に迫るために、凡さんが館長を務める「小泉八雲記念館」を訪ねた。記念館は、松江城の北側、武家屋敷が整然と立ち並ぶ、塩見縄手の一角にある。「セツにまつわる展示品もたくさんありますよ」と、凡さんに案内された先には、小さなルーペがあった。これは、セツが3歳の頃に養母に連れられ明治政府が推進する西洋式の練兵を見学した際、フランス人士官からもらったものだ。
「セツはこのルーペを宝物のように大事にしていました。この体験が、西洋人に対する警戒心を解いてくれたようで、のちにセツは、この出来事がなければ、八雲と結ばれることもなかったかもしれないと回想しています」
1868(慶応4)年2月、松江藩の中級武士を束ねる番頭の家柄の小泉家に、セツは生まれた。小泉家には5人の子どもがいたので、子どもがいなかった遠縁の中級武士の稲垣家に、生まれてすぐに養子に出された。稲垣家では、セツのことをお嬢(おじょ)と呼び、大変かわいがって育てたという。玄関には槍や刀掛けや鎧櫃があり、朝には養父や養祖父が髷を結う──セツが物心ついた時には、昔ながらの武家の暮らしがあった。
一方で、世の中では革命が進行していた。セツが生まれる直前の1867年12月、王政復古の大号令により、明治新政府が樹立。1869年に松江藩主松平定安は版籍を奉還し、旧家臣たちは、段階的に家禄を削減されていった。こうした時代の流れの中、生家の小泉家も養家の稲垣家も、次第に家計が逼迫していく。セツは8歳で義務教育の公立小学校に入学、飛び級試験に合格するほど成績が良かったが、家計が苦しかったために11歳で義務教育を終えると進学を諦めなければならなかった。この時のセツの悲しみは大変なものだったという。しかしキッパリ気持ちを切り替えて、生家の小泉家が起業した機織り工場の作業員となり、稲垣家の家計を助けるようになった。
「これが、当時セツが織った布の見本帳です」。模様の異なる大小の藍の布がびっしりと貼り付けられたノートは、彼女の真摯で几帳面な人柄を想像させた。
「当時の機織りは重労働だったため、セツはがっしりした労働者の体つきになりました。そのため八雲は最初、彼女が武家の娘だとはとても信じられなかったようです」
ヘルン言葉の誕生
1891(明治24)年、前年に英語教師として松江に赴任してきた八雲は、宍道湖を望む屋敷の離れに居候していた。身の回りの世話をする人間を探していたところ、読み書きができるセツに白羽の矢が立つ。2月から、セツは住み込みで働くことになった。この時彼女は23歳。18歳の時に士族の青年と結婚したもののうまくいかず、前年に離婚して小泉家に復籍していた。当時の23歳はすでに中年。どんなことを思いながら日々暮らしていたのだろうか。
「生家の母の暮らしと稲垣家の家計は、セツの肩にかかっていましたから、生きることで精一杯だったんじゃないでしょうか」
セツは英語を解さないし、八雲も日本語を話せなかった。しかし2人は根気よく、一つ一つ言葉の意味を辞書で確かめながら意思疎通を図り、急速に心を通わせていった。そして2人は共に暮らす道を自然と選んだ。この時から試行錯誤しながら作り上げていった独特の日本語は、のちに「ヘルン言葉」と呼ばれるようになった。八雲は英語教師を務めていた島根県尋常中学校の生徒から「ハーン先生」ではなく「ヘルン先生」と呼ばれ、松江ではその名が定着している。
案内人=小泉 凡
文=鈴木紗耶香 写真=佐々木実佳
――この続きは本誌でお読みになれます。八雲とセツが暮らしていた武家屋敷「小泉八雲旧居」をはじめ、松江城や宍道湖、神社など、夫妻が愛した松江を巡り、八雲、そして編集者として夫を支えたセツの活躍に思いを馳せます。今月30日に小説『ヘルンとセツ』を上梓する田渕久美子さん、立命館大学名誉教授の西成彦さんによるコラムもぜひお楽しみください。
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出典:ひととき2022年9月号
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