さま〴〵の事おもひ出す桜哉|芭蕉の風景
さま〴〵の事おもひ出す桜哉 芭蕉
平易で深い、桜の名句
貞享五(1688)年旧暦三月、故郷の伊賀に滞在していた芭蕉は、かつて仕えていた藤堂新七郎家の下屋敷に招かれ、花見をしている。芭蕉を招いたのは、かつて芭蕉が奉公した良忠(俳号 蟬吟)の子息、良長(俳号 探丸)であった。
俳諧好きの主君蟬吟に仕えたことで、芭蕉(当時の俳号は宗房)はおのずと俳諧に興味をもった。ただ、芭蕉を愛しんでくれた蟬吟は、寛文六(1666)年に急死してしまう。享年わずか二十五であった。残された芭蕉は二十三歳。そして、遺児良長はまだ幼児であった。
主君の死の二十二年後に、青年となった主君の子息から、芭蕉は高名な俳諧師として、主との想い出の屋敷に招待を受けたのである。良長の風貌に、かつての主君蟬吟のおもかげを探ることもできたことだろう。
句意は、「見上げていると、さまざまなことをおのずと思いだす、桜の花であることよ」。難解なことばは一語もない。口語訳もいらないほどに平易な句である。それでいて、桜への深い思いが感じられる。桜の花のもっている不思議な力、思いださせる力を書きとめている。「〴〵」の踊り字の部分は、まさに咲き枝垂れる一枝そのものであるとも感じられるのだ。芭蕉の名句の一つである。
掲出句は紀行文『笈の小文』に、前書なしで所載。先に記した事情は、芭蕉自身が懐紙に残した自筆の句の前書によって知ることができる。『笈の小文』に掲載した際、前書を一切付けなかったのは、特殊な事情の元で読まれたくない、普遍的な桜の句として読んでほしいという芭蕉の意志だったのかもしれない。
立春は近いが底冷えのする日、伊賀鉄道伊賀線上野市駅に下車。駅の向かいの「ハイトピア伊賀」一階にある観光案内所を訪ねた。尋ねたいことがあったのだ。
阿部喜三男他著『芭蕉と旅 上』によると、掲出句がつくられたのは、藤堂新七郎家の下屋敷であった。伊賀市上野赤坂町の芭蕉生家から遠からぬ所にあり、掲出句の上五に由来して、後に「さまざま園」と名付けられている。「今でもこの庭にはみごとなしだれ桜があり、芭蕉のころの桜の三代目だといわれている」と記されているが、その庭を現在見ることができるかどうかを知りたかったのだ。
観光案内所の女性は、掲出句のこともさまざま園のこともよくご存じだった。ただ、「個人の家の庭なので、残念ながら現在は公開されていないのです。桜の木も枯れてしまって、もうないのです」と本当に残念そうだった。
蟬吟の墓に参る
それではどこへ行くか。ぼくは蟬吟の墓がある山渓寺を訪ねたいと思った。上野市駅前から銀座通りを南下して、銀座中央駐車場を右折すると、山渓寺である。臨済宗東福寺の末寺で、寺を建てた大年禅師は、戦国武将藤堂高虎とともに伊予(現在の愛媛県)から伊賀に来た人。この寺には、高虎の従兄弟である藤堂新七郎良勝を初代とする、藤堂新七郎家代々の墓所がある。
藤堂新七郎家一族の墓はかたまっているが、蟬吟の墓だけは離れたところに建つ。二メートルを超える高さの黒っぽい花崗岩の墓で、戒名の下に「寛文六丙午歳四月二十又五日」と刻まれている。蟬吟の亡くなった年と命日である。蟬吟は父よりも早く亡くなったため、一族の墓群には入れてもらえなかったのだ。
芭蕉の句の「さまざま」の中には、蟬吟が亡くなった日のことがかならずや含まれているだろう。故郷の伊賀に帰ってくるたびに、芭蕉は蟬吟の墓に参っているはずだ。蟬吟の墓にぬかずいていると、芭蕉の気配を感じる。「蟬吟様、若き日の芭蕉を俳諧に誘ってくださって、ありがとうございました。安らかにお眠りください」と申し上げて、合掌を解く。おりから降り出した雨が急に雪に変わり、墓の面で解けてゆく。
芭蕉の掲出句に対して、花見の当日、亭主である良長が脇句を付けている。
春の日はやくふでに暮行 探丸子
句意は「永いといわれる春の日も、脇句を付けようと苦心して筆を使っていると、いつの間にか時間が経ってしまい、暮れてゆきます」。
良長は脇句がなかなかできないながらも、芭蕉とともにある春の午後が過ぎていくことを惜しんでいる。芭蕉への敬意を含んだ、おおらかな付句である。良長がみごとな脇句を付けたことにも、芭蕉は父蟬吟の血を感じたことだろう。
雨雪となりたり墓の面打つ 實
墓より見えしだれざくらや枯れきれる
※この記事は2015年に取材したものです
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