倉敷ガラス──民藝との出会いの物語
ガラスとはもっと親しくなれる。
日本人とガラスは、もう2000年くらいにもなろうかという長い付き合いだ。それほどはるか昔に、人間がおこす火のなかでいくつかの物質が溶けて混じり合い、生まれたのがガラスである。
光を受けてさまざまな色に輝く美しさから、古代では宝石と同じくらい貴重で高価だったガラス。いまは私たちのまわりに当たり前にあり過ぎて、生活を支えてくれていることさえ忘れがちだ。だが辺りを見回してみれば、スマートフォンのディスプレイ、薬品を封じ込めるアンプル、グラスファイバー、さらには宇宙船から地球を眺める窓に至るまで、ガラスは実に頼もしい。
なかでもいちばん身近なのは、毎日の暮らしで使う器だろう。冷たい水をいっぱいに入れたコップ。真っ赤なトマトをくし切りにして盛るガラスの小鉢。アイスクリームやかき氷をこんもりと載せた脚付きの小さなデザートカップ。
「ちょうどよい厚みと重みがあって、潤いのあるガラスが生活のなかにあったらどんなにいいだろう」
工場で大量生産された均質なガラス器に飽き足らず、そう考えたひとが、岡山県倉敷市にいた。そしてそんなガラスを作りたいと願ったひとも。
その想いは、使いやすく、眺めていて楽しく、いつも身近にいてほしい友だちのような「倉敷ガラス」を生むことになる。
運河のほとりに立つ倉敷民藝館
江戸時代には幕府の直轄地「天領」として、その後も繊維などを扱う商都として栄えた倉敷には、膨大な物流を担う運河が造られた。それがいまも、のびやかな景観の中心となっている倉敷川だ。米俵やさまざまな商品を満載した川舟が絶え間なく行き交い、両岸には豪商たちの蔵屋敷が立ち並んだ。すぐそばには代官所が置かれ、時代が移るとそれは巨大な紡績工場に変わった。
地域のひとびとが手をかけ、大切に保存してきた建物は、いまでは美術館、ギャラリー、雑貨店や飲食店となり、年間を通じてたくさんのひとが訪れ、散策を楽しむ。ここではかつて流れた時間が層のように重なって続いている。
倉敷川のほとり、車の乗り入れが制限された美観地区に、江戸時代後期の米倉を改装して造られた「倉敷民藝館」がある。敷地に一歩足を踏み入れれば、賑やかな表通りとは一変、静寂に包まれる。石畳の敷かれた中庭を進むと入り口だ。
ここに「倉敷ガラス」のコレクションがある。ガラスの瓶、水差し、蓋付きの壺などが、ぽってりと柔らかく、温かみのある姿で展示されていた。
印象的なのは深く澄んだ青い色、「小谷ブルー」だ。「倉敷ガラス」の「作り手」小谷眞三さんの名前からそう呼ばれる。クリスマスツリーを飾るガラス玉を作る職人だった眞三さんを、ガラスの日用品を作るように励ましたのが、倉敷民藝館の初代館長だった外村吉之介*と民藝運動の熱心な支援者たちだった。
「民藝」とは「民衆的工芸」を意味する。大正時代末期、柳宗悦*らが提唱したことばだ。権威づけられた「美術品」ではなく、私たちが日常で使う陶磁器、木工品、かご、布など、“名もなき職人”の手で作られる簡素で丈夫な実用品に美を見出していこうとする民藝運動は、まもなく全国各地に広まっていった。
牧師であり染織家でもあった外村は柳の勧めで岡山に移り住み、以後亡くなるまで、この地に育まれた工芸品の保存や収集、生産に力を尽くした。運動の理解者だった地元の実業家・大原總一郎*の強力な支援も受け、工芸品を展示・収蔵する倉敷民藝館が開館したのは1948(昭和23)年。柳が創設した東京・駒場の日本民藝館(1936〈昭和11〉年開館)に次ぐ、全国で2番目の民藝館だった。外村の熱意の結実といっていいだろう。
倉敷民藝館2階の小さな窓から中庭を見下ろせば、日の光を白く反射する表通りとは対照的に、貼り瓦と石畳が黒く艶めいている。眞三さんがガラスのコップを作り始めた1964年の夏、この中庭に立ったまま初めて試作品を見せたとき、外村はまだコロンと不格好だった作品に手を打って喜んだという。「いいねえ、いいねえ」と顔をほころばせ、白髪頭を振り、足を上げて踊ったそうだ。外村の喜びようは、その後も眞三さんがガラス製品を作り続けていく力になった。
「倉敷ガラス」に魅せられて【日本郷土玩具館】
倉敷民藝館を出て、倉敷川に沿って植えられた柳を眺めながら少し歩くと「日本郷土玩具館」が見えてくる。館長の大賀紀美子さんが先祖から受け継いだ蔵屋敷を守りつつ、改装して1967(昭和42)年にオープンしたものだ。
日本全国から収集した土人形、凧、羽子板、独楽などの郷土玩具約1万点が展示されている。
その奥に併設された「サイドテラス」はテーブルウェアを中心に販売するショップだ。大賀さん自身が選ぶ陶器や漆器などが並ぶなか、中庭に面したいちばん明るい場所に「倉敷ガラス」が置かれていた。
「眞三さんがコップを作り始めたのと、私がここで工芸店を始めたのは同じころでした」
と話す大賀さん。倉敷民藝館の関係者に勧められて眞三さんの作ったコップを使い始めたころは、氷を入れただけでピーンと割れてしまうこともしばしばあったという。それでも、手になじんで温かみのある眞三さんのガラスに魅了された大賀さんは、割れても割れても買い求め、50年以上ものあいだ、眞三さんが技術を磨き上げていく過程を見守ってきた。
健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない
「でも、それは本当に大変だったんだ」
小谷栄次さんがとつとつと語る。眞三さんの長男である栄次さんは、「倉敷ガラス」の唯一の後継者だ。
ガラス玉を作れる眞三さんなら、コップくらい簡単だろう、と当時周囲は考えていたようだが、材料も設備も違う。それに現在のように、あらゆる情報がすぐ手に入る時代でもない。眞三さんは見本として渡されていたメキシコ製のコップだけを目の前に置いて、試行錯誤を繰り返した。道具を作り、たったひとりで工程を模索し、ようやく制作方法を確立する。それはゼロからの道のりだった。栄次さんがまだ幼かったころのことである。
栄次さんの工房は倉敷市の中心から少し離れた山の斜面にある。炉の蓋を開けると、るつぼのなかでどろどろに溶けたガラスがカッと赤い光を放っているのが見えた。一日じゅう燃えている炉は1300度、工房の室温は夏なら50度を超えるそうだ。鉄パイプに溶けたガラスを巻きつけ、ふっと口で吹いて膨らませる。さらにガラスを巻きつけて成形し、もう1本の鉄パイプで底を支えてから最初のパイプを切り落として口縁を作る。ガラスを再び熱しながら形を整えて、ひとつひとつ作っていく……。
「親父は何も教えてくれなかったよ。ひたすら見て覚えるんだ。そして親父の仕事が終わった後、残った生地でひとりでやってみる。ぼくはただ小鉢だけを作り続けた。7年間、同じ形のものを」
10年目に県内のデパートで個展を開催し、それを機に独立した。
外村が唱え、眞三さんが大切にした「健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない」という4つの教えを、栄次さんも受け継いでいる。「小谷ブルー」の青い色も。
いま栄次さんが作るものは小鉢のほか、ぐい呑み、コップ、小皿、水差しなどさまざまだ。どれも余計な飾りはなく、重すぎず軽すぎず、手にしっくりとおさまる。
「生活のなかで使う道具にこだわっていたい。倉敷に民藝館があるのをありがたいと思っているよ。手仕事の道具を日々使う尊さを自然にわかってもらえるからね。ぼくの作る器も、みんなそういう心で受け止めてくれるんだ」
小さな心地よさの積み重ねが、暮らしの豊かさにつながっていく。
──この続きは本誌でお読みになれます。岡山に根を下ろしたガラス工芸は、小谷眞三さんの教え子ら、次世代へと受け継がれ、新たな花を咲かせていています。原料を精製しすぎる現代のガラスは青白くて病的だからと生み出された、絶妙な「はちみつ色」のガラスに、倉敷で古くから栽培されるイグサを取り入れた、緑色に輝く「いぐさガラス」など、透明感ある涼やかな写真と共に様々なガラスの魅力をご堪能ください。世界でも類を見ない、緑色の光を放つウランガラスの美術館の記事も必読です。
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文=瀬戸内みなみ 写真=阿部吉泰
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