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不朽の名作『悲情城市』を7つのキーワードで読み解く|栖来ひかりの台湾映画の歩き方。

この連載は、台湾在住の文筆家である栖来すみきひかりさんが、現地の映画を通して見た台湾の歴史や文化、日本との繋がりなどをご紹介するコラムです。第3回は、台湾映画の巨匠・侯孝賢ホウシャウシェン監督がいまから遡ること33年前に撮影した不朽の名作悲情ひじょう城市じょうしを7つのキーワードから読み解きます。日本人にも関わりの深いこの映画、ぜひ改めてご注目ください。

17年前の東京で、はじめて映画『悲情城市』を観た。当時の彼で今の夫(台湾人)が家の近所のレンタルDVD店で借りてきた。その頃、わたしの台湾に対する知識は殆どゼロと言ってよく、たとえば今でいう台湾華語(中国語/北京官話)とホーロー語(台湾語)がお互い意思疎通できないほど異なる言語であることさえ知らなかった。

「この映画を観たら、わたしのお父さんお母さんたち台湾人の気持ちがわかります」とDVDを借りてきた彼はたどたどしい日本語で言った。

だが、台湾の歴史に無知なわたしには、理解できないところだらけだった。ただ、この時代の台湾人に日本語を喋る人がいるのが不思議だった。そして、とてつもない悲しい歴史を台湾が持っているのだと思った。それから『悲情城市』を折に触れて幾度となく観たが、台湾について理解が深まるほどに、この作品はまったく異なる手触りを与えてくれた。

そして今年、公開から33年を経て“デジタル化”された『悲情城市』は、台湾で劇場公開となり大きな反響を呼んでいる。キャッチコピーは「台湾人として必ず観るべき映画」。公開当時この映画を観たという人でさえ、「新作を見るような気持ちで観た」「30年前と全く違う感動があった」など多くの感想を聞いた。わたしも、“初めて”この作品に触れた気がした。そして台湾人のみならず、日本人も必ず観るべき映画だと思った。なぜならここで描かれている台湾、そしてアジアの歴史や文化において、日本もまた当事者であるからだ。遠くない将来、きっと日本でも公開されるだろう。その時はぜひ映画館に足を運んでもらいたい。

* * *

1989年に公開されたこの作品は、台湾の港町・基隆きーるんの有力者で、炭鉱の町・九份で酒家(ナイトクラブ)を営む林阿祿と4人の息子たちを中心に、1945年の第二次世界大戦終戦以降、国家に振り回され没落していく林家を描く。

当時は日本でも公開されて話題を呼び、これをきっかけに多くの日本人観光客が舞台の九份に足を運ぶようになった。すでに語り尽くされたかのように思える『悲情城市』だが、ここ30年以上のあいだ民主国家として怒涛のような変化を遂げた台湾、そして東日本大震災をきっかけに大きく変容した台湾と日本の関係も踏まえたうえで、映画を織りなす7個のキーワードに沿って、いま一度読み解いてみたいと思う。

*** これ以降、一部ネタバレあり ***
(未見の方はご注意ください)

1.光

冒頭、真っ暗な部屋のなかで女性が陣痛に苦しんでいる。被さるように響くのは、第二次世界大戦の終結を告げる昭和天皇の声。1945年8月15日の正午にラジオ放送された玉音放送は、台湾・朝鮮・満州などの「外地」でもラジオで流れた。

林家の長男・文雄は、妾に子供が生まれるのを待っている。もし男子であれば、正妻とのあいだに女子しか持たない文雄は、初めての男子を授かることになる。イライラしながら出産を待つ文雄の頭上で電灯がともる。

「やっと電気が来たか」と言いながら灯火管制のために覆っていた電気の傘を取り外す文雄は、このとき直接に「玉音放送」を聞いてはいないが、日本の降伏を知っている。だとすれば、事前に薄々公言されていた知らせが耳に入っていたということだろうか。

いずれにせよ、日本の降伏が一般民衆に共有されたこの日に誕生したのが文雄の長男「光明」だ。日本統治時代末期、日本統治下で生まれた台湾人も「天皇の赤子」であり「日本人」とされた。とすれば、台湾が日本の統治下から外れたこの時に生まれた「光明」は果たしてナニ人なのか?

その答えは、映画中盤で二二八事件*が起こり、防衛手段として「外省人*」狩りをした「本省人*」の人々に対して耳の聞こえない文清(トニー・レオン演じる林阿祿の四男)がホーロー語で答えた“gua si Tai-uan-lang(わたしは台湾人です)”というセリフに集約されていく。

*二二八事件:1947年2月28日に、中国本土から来た外省人と本省人が衝突し、国民党政府による弾圧で多くの死者が出た事件
*外省人:戦後に中国から国民党と共に台湾へきた中国系移民
*本省人:戦前から台湾に住んでいた人々、なお「外省人」「本省人」という表現は現在の台湾では不適切であるとして公共の場では余り使用されない。

2.家

戦争が終わり、林家の経営する酒家はふたたび開店の日を迎えた。家父である阿禄が座るテーブルの中心の皿には料理された鶏が丸ごと置かれている。

鶏は台湾語で「ゲエ」といい「家」を表す音にも通じることから、「家」の象徴とされる。商売繁盛を祈る祭儀は、阿禄と長男の文雄を中心に執り行われる。祭壇の中心に供えられる蓋のついた「壷」は「福」という音に通じ、これも「家」の象徴である。

各家の室内装飾で目立っている「春聯*」にも一家の繁栄を祈る言葉が書かれ、繰り返し画面に登場する。鶏、壺、春聯、どれも台湾の伝統的な男子血統により永続的に富み栄える「家」の象徴である。

*春聯:正月飾り、紅い紙に吉祥の言葉が書かれたもの

3.父親

この映画には様々な父親像が描かれるが、すべてにおいて家父長制が基本となっている。

一家のあるじである老齢の林阿禄は、日本統治時代に基隆で顔の利く資産家である一方、民族主義者として日本政府に抵抗し「ヤクザもの」と呼ばれていた。息子・文雄にとっては、自分を電信柱に縛り付けてまで博打場に通った非情な父親だが、親を敬うのが絶対的な台湾の伝統的家族観のなかで親に逆らうことは許されない。

文雄はいつもスラングを発し口は悪いが、仁義に厚く泣き止まない赤ん坊をあやすなど優しい顔も見せる。そして、印象的なのは茶を飲むシーンである。日本式の急須は注ぎ口から直接飲む行儀の悪い文雄だが、中国茶用の茶壺は大事に磨き育てている。文雄が日本統治を良く思っていないのは、冒頭の灯火管制のもと電灯の黒い覆いを忌々しそうに外すシーンからも見て取れる。

日本が敗戦で去り、自分たちの同胞*が台湾にやってきた。台湾人が自由にのびのびと振る舞い、自分たちの国を作れる日がやってきたのだ。そんな期待感のもと生まれた息子の光明は、茶壺と同じく彼の掌中の珠であり、彼の思い描く台湾の未来の「光」である。

*戦前から台湾に住む台湾人の多くは、中国福建地方にルーツをもつ

一方で、文雄は「日本」を体現する存在でもある。日本式の彫り物に楊柳肌着、腹巻きをして下駄を履き、女性に後ろから羽織を着せてもらいドスを振り回す。しかし結局は、長袍(長い丈の中国服)を着た上海マフィアに拳銃で撃ち殺される。桁違いのアメリカの軍事力に敗戦した日本、そして台湾を支配する国家(日本から中華民国へ)の移行が暗喩される。

林家の次男(文龍)は太平洋戦争に日本の軍属として出征したまま戻らず、三男(文良)は戦争で統合失調症を発症したのち国民党政府の拷問により正気を失い、四男(文清)も逮捕されたまま帰らぬ人となる。林家は支配国家の移行のもとで家父長たる大人の男を次々と失い、最後に残るのは老人と女と子供と、正気を失い赤子のような文良、そして本家の血統ではない阿嘉(文雄の妾の兄)のみである。

4.食事

映画ではひっきりなしに食事のシーンが現れる。どんなに悲しく苦しいことがあろうとも、人は生きるために食べていかねばならない。台湾の人々は、生きるためのエネルギーとなる食事をとても大切にする。

一方で、食事とは「共同体」を構成するための最も小さな文化的営みである。同じ食卓で食物を分け合う人々は家族であり、この世界を共に生きていく仲間である。

5.歌

日本が敗戦して去り、台湾エリートたちは台湾の未来に大いに希望を抱いていた。というのも、日本統治下で多くの優秀な台湾人子弟が日本へ留学したが、日本で学問を修めてもその後の就職に苦労し、中国へ渡った台湾人は少なくなかった。「同じ日本人で天皇の赤子」という建前にもかかわらず、参政権もないなど、台湾人エリートは植民地下の待遇に大きな不満を抱えていた。

中華文化を自分たちのルーツと思う「漢民族主義」もそれを支え、中華民国統治下に置かれたことを「祖国の胸に抱かれる」と表現し、歓迎した。そうした心情をよく表しているのが、九份の酒家で文清の友人らが放歌する抗日曲『流亡三部曲』(松花江上)である。

九一八,九一八,
從那個悲慘的時候
脫離了我的家鄉,拋棄那無盡的寶藏
流浪!流浪!
整日價在關內,流浪!
哪年,哪月,才能夠回到我那可愛的故鄉?

9月18日 9月18日
あの悲惨な事件の日から
故郷を離れ、尽きることのない宝を捨て
彷徨い 彷徨う
いついかなる時も 彷徨い続ける我ら
いつになれば 愛しいあの故郷に帰ることができるのか

——『流亡三部曲』(松花江上)

「九一八」は日本では満州事変と呼ばれ、日本軍による中国への侵略戦争の始まりを告げた事件のことだ。その痛みを台湾人も共有している、だから新しい世の中ではきっと自分たちが主体的に活躍できるだろうとの期待が、この歌のシーンにはこもっている。

しかし、期待していた世はやってこない。中国国民党は台湾における利権を独占、賄賂がはびこり、戦前より台湾に住んでいた人々は物価高に苦しんだ。こうした世情の下の台湾の人々の喘ぎを如実に示したのが、文雄のつぎのセリフである。

「咱本島人最可憐,一下日本人,一下中國人,眾人吃,眾人騎,沒人疼」
(俺ら本島人はどんだけミジメだってんだ、やれ日本人だ、今度はやれ中国人だ、どいつもこいつもやりたい放題、乗っては捨てられ大事にもされやしねえ)(筆者意訳)

また、文清も閉じ込められていた獄中にて、死刑執行を目前にした仲間のために歌われるのが『幌馬車の歌』(作詞:山田としを/作曲:原野為二)である。

夕べに遠く木の葉散る 並木の道をほろぼろと
君が幌馬車見送りし 去年の別離が永久よ

白色テロで処刑された基隆中学校校長・鐘東洪が最後に仲間らにこの歌での見送りを頼んだことから、受刑者らの送別歌となった。鐘東洪は、戦前の日本の明治大学を卒業後、中国へ渡り抗日運動に参加した熱烈な抗日運動家だったが、死ぬ間際に聴きたいと願ったのが日本の歌だったのはなんとも皮肉というか、この時代の台湾の悲哀というほかない。

ちなみに鐘東洪と「幌馬車の歌」のエピソードは、その後のホウ・シャウシェン監督作品「好男好女」(1995)で詳しく描かれている。

6.対比

それぞれのシーンやエピソードは、以上に書いたことを対比させながら、一本の線をつなぐように進む。

たとえば、抗日曲『流亡三部曲』(松花江上)の放歌のシーンの直後に続くのが、女主人公の「寛美ひろみ」が仲良くしてきた日本女性「小川静子」から、友情の印として剣道の竹刀と桜の柄の着物を贈られるシーンである。敗戦して引き揚げる日本人らが持ち帰ることのできる荷物は制限されており、多くの財産や持ち物を手放して引き揚げ船に乗った。

「故郷を離れ、尽きることのない宝を捨て 彷徨い 彷徨う」という抗日歌の内容を、日本人の引き揚げにまつわるシーンが引き受けている。こうして、次のシーンが前のシーンをより際立たせながら展開する本作の象徴が、林家の酒家の玄関を彩るステンドグラスだ。赤の隣に黄緑や黄、オレンジと様々な対比色が並び響きあう。

7.記録

「記録されたものだけが、記憶される」

これは、『台湾日式建築紀行』の著書で知られる渡邉義孝さんが、以前教えてくれた宮本常一の言葉である。

映画のなかでは様々な「記録」が登場する。日記や手紙、耳の聞こえない文清と寛美の筆談。文清にとっては、その時に起こっていることを理解するのに周りの助けが必要である。文清という役はまさに、戦後の国民党政権下で多くの事実が隠され認識できずにきた「台湾人」の暗喩とも取れる。

さらにこの映画が公開されたのは1989年。戒厳令が解除されてたった2年足らずであった。今なら、日本統治時代や二二八事件や白色テロに関する多くの資料が見つかり研究も進んでいるが、この時期にこれほどの物語が作れたことは驚嘆に値する。

世の中には記録されないまま忘れられてしまった事実が山ほどある。映画という創作自体がそうした重責を背負っていることを、本作は33年経った今、台湾社会に知らしめた。そして多くの台湾人がいま、この映画について色んな側面から語りたがっている。

* * *

以上のように読み解いていけば、なんと繊細に練られた脚本なのかと痺れるほどに感心してしまう。

台湾の映画評論家の藍祖蔚さんが、悲情城市の脚本家である朱天文さんから聞いたところによれば、黒澤明監督がこの作品を観て、ラストシーンに非常に感心したらしい。厳格な「撮影所システム」のもとで育った黒澤監督を感動させたのは、中心のテーブルで食事をしている阿禄ら主役を遮るように、林家の女の子が前を行ったり来たりするその自由さ、生命の躍動だった。映画公開後、台湾で高まる民主化運動のうねりを予感させる慧眼ではないだろうか。

文・絵=栖来ひかり

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。

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