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私を作家へと導いた島|佐々木 良(作家、万葉社代表)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイあの街、この街。第24回は、万葉集を若者言葉の奈良弁で超訳した著書『愛するよりも愛されたい』と『太子の少年』が累計20万部を突破し、話題沸騰中の佐々木良さんです。前職は美術館の学芸員で「まともに本を読んでこなかった」という佐々木さんが、なぜ出版にかかわることになったのか。その鍵は、瀬戸内海に浮かぶひとつの島にありました。

豊島。

多くの人は、トヨシマ、トシマと読むでしょう。しかし、香川県の離島「豊島」は、テシマと読みます。

この豊島に出会ったのは、中学校の時です。家族の仕事で大阪府から香川県に引っ越してきました。中学校の最初の社会科見学が「豊島」だったのです。

当時は、まだ産業廃棄物が山積みされていて、先生に連れられてその現場に降り立った時、

「臭い。こんな臭い島に2度と来るか」

という感情をもったことを今でも鮮明に覚えています。あの嗅覚をえぐるような匂いは本当に忘れられません。

これが、豊島に初めて行ったときの感想です。その後、私は京都の美術大学に進学し、油絵を学びました。卒業後は、直島でアート活動をする福武財団に入職しました。就社後、「豊島に新しい美術館ができるから、そこに異動せよ」という辞令が出ました。

けれども中学校の時に感じた「臭い島」というイメージしかなかったので、豊島で働くことを拒否しましたが、上司に説得され、およそ10年ぶりに豊島に上陸しました。すると、豊島の空気がとても澄んでいて、空気の透明さを感じたのです。

私が知らないこの10年の間、いったい何があったのか――。

その理由を知りたいと思い、それから私はたくさんの島の方に話を伺いました。そうして、島の歴史を知れば知るほど、「これは伝えなきゃ!」という使命感にかられるようになりました。

島の変化を知っていて、かつ、豊島でのアート活動のことを知っている私にしかできないことだと感じたのです。

そこから、6年もの時間をかけて、必死に文献を探したり、資料本を読んだりして、文章を書き留めていきました。それまでまともに読書をした記憶もなければ、文章を書いたこともありませんでした。

豊島について江戸時代以前の文献を調べるうち、讃岐国の所領であった小豆島では、かつては豊島を「手島(テシマ)」と表記しており、備前国の所領では「豊島(トヨシマ)」と表記していることがわかりました。

そのことをきっかけに、現在の四国が4つの国(県)に分かれているように、豊島にもかつて2つの国の“国境”があったのではないかと感じるようになりました。

ところが、江戸時代以降の文献を見ると、「手島」の表記はなくなり、「豊島」という表記だけになっていたのです。さらに調査を進めた結果、なぜ「豊島」と書いて「テシマ」と読むのかの答えとして、島にあった“国境”をなくし、島の名称を「豊島と書いて、テシマと読む」という折衷案を採用して、表記は「豊島」、読み方は「手島」とする、両方の名前が残されたのだ、と結論づけました。

そうしてできたのが、豊島の地名の歴史からはじめて、豊島に残る神社の歴史、産業廃棄物の不法投棄事件(豊島事件)、そして瀬戸内国際芸術祭、豊島美術館ができるまでの豊島の歴史を探った、私のデビュー作、『美術館ができるまで なぜ今、豊島なのか』(啓文社書房)なのです。

文=佐々木 良

▼公開中の佐々木さんの記事、「言葉を探す旅。ベストセラー『愛するよりも愛されたい』・『太子の少年』が生まれるまで」もぜひご一読ください!

佐々木 良(ささき・りょう)
1984年生まれ。京都精華大学芸術学部卒業。作家。大学時代は油絵を専攻。卒業後は地中美術館、豊島美術館の設立メンバーとなり、京都現代美術館の学芸員を経て、フリーランスで国内外の展覧会を手がける。2018年、『美術館ができるまで なぜ今、豊島なのか?』(啓文社書房)で作家デビュー。『令和は瀬戸内からはじまる』(2019年 啓文社書房)を刊行後、2020年に出版社・万葉社を起ち上げる。2021年に、造本・装幀にこだわり抜いた『令和 万葉集』、『令和 古事記』を刊行、2022年10月に出版した『愛するよりも愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集①』がベストセラーとなる。2023年7月に第二弾となる『太子の少年 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集②』を刊行。
万葉社インスタグラム

▼「あの街、この街」のバックナンバーはこちら。


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