日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹が祇園祭で見つけた“幸福”
湯川秀樹(1907~1981)は、1949(昭和24)年に日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した学者として、教科書にも登場する偉人です。第二次世界大戦後の復興途上という時期の「ノーベル賞受賞」のニュースは、敗戦で自信を失っていた多くの日本国民に誇りと勇気をもたらしました。
湯川は1907(明治40)年に現在の東京都港区六本木で誕生します。1歳の時、父が京都帝国大学教授に就任したため一家は京都市に移住。以後、一時期、阪神方面やアメリカで過ごしていたこともありますが、人生の大半を京都で暮らします。湯川が1959(昭和34)年に刊行した自伝『旅人』の中でも、「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり、京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記しています。
湯川にとって、京都はまさに故郷であり、別のところでも「京都の土地と人とを愛好する気持ちは、決して人後に落ちないつもりでいる」とも語っています。京都と湯川は切り離せない存在。そんな湯川が、昭和30年代の初め頃、こんなことを言っているのです。
前後通算すると三十年程京都に住んでいたことになるが、祇園祭の山鉾巡行を見たのはどうも今度が初めてらしい。らしいというのはごく小さい時に見たことがあるようであり、ないようであるからである。見たとしてもほとんど私の記憶に残っていない。
なぜ今まで見ていなかったのか、以前は格別の興味も感じなかったのであろう。昼間のことであり、近年は多分何か用事があって行けなかったのであろう。
京都を代表する年中行事といえば、祇園祭でしょう。祇園祭は八坂神社の祭礼・行事ですが、中でも山鉾が四条通から河原町通を巡行する「山鉾巡行」は、その最大のハイライトとして、昔から見物客の人気を博しています。その山鉾巡行を見た記憶がないと、京都が故郷の湯川が言うのです。
宵山の方は今までに何回も見た。見たというより歩き回ったという方が適当であろう。四条通に並んでいる華やかな山鉾を人波にもまれて見て歩いた後に、やや人通りの少ない横丁に入ってゆくと思いがけない方向から祇園ばやしが聞こえてきたり、寂しい町の一隅に山の人形がまつってあったりする。
だんだん中心地帯から遠ざかってゆくにしたがって、人のゆききもまばらになり、はやしの音もかすかになっていく。私はこの気分の移り変わりが好きであった。
そればかりではない。平生は表だけしか見えない間口の狭い中京の家々が、中庭から 奥の方まですっかり見通せるように明るくてらされ、屏風や毛氈で飾り立てた表座敷で閑談する人影が見えるのも、宵山になくてはならぬ景物であった。今年はあまり人出が多いので、四条通を少し押され歩いただけで早々に引きあげた。
山鉾巡行を見た記憶はないものの、宵山は何回も体験していたようです。宵山とは祇園祭のいわば前夜祭で、各町内に山鉾を飾り、鉾の上では祇園囃子が奏でられます。また、町内の旧家や老舗の商店では秘蔵の屏風や調度品などを出し、見物客に公開することもあります。
祇園祭の歴史は古く、起源は平安時代に遡ると言われています。明治時代までは、祇園御霊会と呼ばれ、869年に日本各地に疫病が流行した際、祇園社(現在の八坂神社)より神泉苑に神輿を送り、災厄の除去を祈ったことが祇園祭の始まりとされています。時代とともに姿を変えて、次第に豪華になり、現在の山鉾の形態に発展しました。
山鉾とは祭礼に引かれる山車の一種で、車の台の上に家や木、人形などの作り物を置き、それらの上に鉾や長刀などを立てた物のことを言います。祇園祭の山鉾は中京・下京の各町に伝わるもので、毎年必ず巡行の先頭に立ち稚児の乗る長刀鉾から、2022年に196年ぶりに巡行復帰を果たした鷹山まで、現在は34基あります。
祇園祭自体は7月1日の「吉符入」に始まり、31日の「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1カ月にわたって神事・行事がくり広げられますが、中心となるのは何と言っても17日(前祭)と24日(後祭)に行われる山鉾巡行と、その前夜祭となる宵山でしょう。湯川もクライマックスである山鉾巡行を見物に行きました。
その代わり山鉾巡行の方は、高山市長*の好意で田中弥人形店の二階からゆっくり見物することができた。
湯川は市長の手配で、四条通にある田中彌という人形店の2階から山鉾巡行を見物しました。京人形の田中彌は、江戸時代の1808(文化5)年に創業し、京都四条で200年以上も営業を続けてきた老舗です。現在でも四条通に店舗を構えています。湯川が山鉾巡礼を見物した時と恐らく建物は変わっていないことでしょう。周囲が大きなビルになっている中で、この店だけが昔の面影を残しています。
私どもの見ている方へ鉾からしきりにチマキをほってくれるので、受けとめるのに大童であった。ねらいがそれて屋根に落ちたのや、また電線にひっかかったのもあった。路に立っている見物の方へはなかなかゆきわたらないのに、私たちが独占するようで気ずつないながらも、私どもを歓迎して下さる気持ちはうれしかった。しまいごろに二階から路の方へチマキをほったら、見回りの人にしかられた。
ここに記されているチマキとは食べ物のことではありません。祇園祭のチマキは、笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守りの粽です。毎年祇園祭の時だけ、各山鉾の会所や八坂神社で授与されたり、販売されたりします。京都では多くの人が粽を買い求めます。京都の町を歩いていると、民家の玄関に飾られている粽をよく見かけます。湯川が見物していた頃は、山鉾から見物客に粽が配られていたのでしょう。
ゆっくりと間をおいて、目の前を通りすぎてゆく鉾や山を見ながら、何百年もの間、毎年毎年くりかえされるお祭りに、こんなに大勢の人が見にくるのはどういうわけであろうかと考えずにはいられなかった。
こんな非生産的なことに多くの金と労力と時間を費やすのはムダなことだと思う人があるだろう。それだけの金と時間と労力とを一般市民の衣食住の生活の改善のために費やした方がよっぽどましだと思う人があるだろう。それもそうだが、過ぎたるはなお及ばざるが如しである。(略)
湯川は京都一中、三高を経て京都帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学の講師となり、さらに大阪帝国大学、京都帝国大学で研究を続けます。1934年、27歳の時に、後にノーベル物理学賞につながる「中間子理論構想」を発表します。
中間子とは原子核の中にある陽子と中性子を結びつける粒子のこと。大胆にも新たな粒子の存在を予測したわけです。その後、中間子(現在のn中間子)の存在が確認されたことで湯川の中間子論は世界的にも評価され、ついにノーベル賞の栄誉に浴することになったのです。
戦後、湯川は一貫して京都大学で物理学の研究と講義を行い、京都大学基礎物理学研究所初代所長、日本物理学会会長などを歴任。1970年に京都大学を退官します。この随筆が執筆された昭和30年代前半は、湯川の40代後半から50代前半にあたり、まさに脂の乗り切っていた時代であったと言えるでしょう。
その湯川が、祇園祭の山鉾巡行とそれを見物に集まった大勢の人々を見て、こんな感想を抱きます。
人生の意義は何か、人生の幸福とは何かということになると、人によって随分見解が違うであろう。お祭り騒ぎは愚の骨頂だと思う人もあろう。私自身も、もともと孤独癖が強かった。一室に閉じこもって本を読むか、考え事をする方がはるかに有意義だと思っていた。
しかし近ごろになって、大勢の人と一緒にぼんやりとお祭りを眺めて、皆が何となく楽しい気分になるということも、決して無意味でないと悟るようになった。
お互いの日常生活の水準が少しずつでも向上してゆくように、たゆまず努力することはもちろん何物にも増して大切なことである。しかしそのために私どもは身体を疲らせているばかりでなく、神経をも疲らせ、いらだたせているのである。そしてそのために必要以上に対立を激化させ、住みにくい世の中を一層住みにくくしている傾向さえないとは言えぬ。
ときたまのんびりとお祭りを見て神経を休める機会を持ち得るということは、京に住む身の一つの仕合わせである。
京にきて祇園祭を見しあとの 耳にすがしき蝉しぐれかな
自伝『旅人』の中で、自身を「孤独な我執の強い人間」であると語るくらい、湯川は人付き合いの苦手な性格でした。しかし、祇園祭の賑わいの中、祭りに集まる人々の楽しそうな姿を見ているうちに、人生の幸福というものを改めて考えずにはいられなくなりました。のんびりと祭りを味わうことも、京都の町の魅力の一つと感じるようになったのです。
晩年は生命現象に関心を抱き、核廃絶運動にも積極的にかかわった湯川は、1981年に74歳でこの世を去り、知恩院の墓所に眠っています。湯川が亡くなるまで暮らした京都市左京区の旧宅は2021年に京都大学に寄贈。2023年までに整備され、活用・公開が予定されています。
出典:湯川秀樹『京都 わが幼き日の……』「祇園祭の印象」
文=藤岡比左志
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