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上間陽子/海をあげる

貧困、若年層のシングルマザー、沖縄米軍基地近隣にて起こる性犯罪、基地の返還問題を描いたノンフィクション作品だが、筆致はエッセイ風で各章のタイトルも可愛らしく、筆者自身の子供との日常生活や仕事などの日常の延長線上にある問題として淡々と書かれている。しかし、その筆致がいくら柔らかいからといって、その内容が、ずしりと重いことには変わりない。この書籍はバトンである。タイトルの「海をあげる」、この言葉を確かに受け取ったなら、何らかの形でアクションを起こさなければならない。1人では抱えきれない気持ちを、本土よりもとても小さな小さな島が直面している問題を、これは決して“沖縄の“問題なのではなく“日本の“問題なのだと理解し声を大にして訴えなければならない。



私も、女というだけで、性別が雌であるというだけで、獲物にされる危険に幼少期から晒されてきた人間の1人だ。私は沖縄在住ではないが、育ったエリアは工場地帯で夜は人通りも無くさびしい場所だった。

幼稚園に通っていた頃、自転車の後部をおじさんに掴まれ連れて行かれそうになったり

中高生の頃、駅からの帰り道、歩いてるおじさんに声を掛けられたり、外国籍の方に車から声を掛けられたり(まあこれはまだ可愛いもんか..いや、ちがう。可愛くなんかない。女だからっていう気持ちが根底にあるのだから同じだ。しかも当時私は未成年なのだから)

一番恐怖したのは19か20の頃、深夜アルバイトを終え自転車で帰宅途中寄ったコンビニで複数の黒人に英語で話しかけられた。居酒屋のバイト帰りだったのでつい癖で笑顔で返してしまった。多分それが良くなかった。その後その人たちが乗ったバンで執拗に追いかけ回された。細い道に入ったらアウトだと思い国道1号線を走る間に何とかまかなければと必死に逃げた。奴らは深夜の国道1号線を自転車の速度に合わせてずっとは走れないので何度も何度も細い道に入って迂回して後ろに回り込む。戻ってくる前に草陰に隠れて何とかまいたのだった。震えが止まらなかったし家の玄関の中に入った瞬間泣いた。

だから私は昔から怒っている。悔しいし怒っている。女だからというだけで獲物にされるということに。黙るしかないことに。逃げるしかないことに。ふざけんなよと憤り続けてる。

酒場でひとりで飲んでいる時に話しかけてくる、おじさんですら嫌いだ。あなたは私が男だったら同じように話しかけましたか?と聞いてみたくなる。

自分が好意を寄せていない男性からの好意さえ受け入れがたい。妙に潔癖でさえあるかもしれない。



話が逸れてしまったかもしれない。戻そう。

だから私も常に警戒して逃げる準備をしながら夜道を歩く癖がある。

著者である上間陽子さんが語られた鍵を握りしめて歩かなければならない、その言葉の意味がすごくよくわかる。

このただでさえ嫌悪する卑劣な事件に、基地が、国が、背景にあったとしたら、どうだろうか。どう感じるだろうか。

また、基地問題も、辺野古は地盤が軟弱で、しかもある記事では、広さも足りず、仮に地盤が整ったとしても滑走路の距離が足りず機能しない、また現在の状況で基地を沖縄に作ることにもうメリットはないという見解もあると書かれていた。

それならば、何故、美しい海を土砂で埋めなくてはならないのだろう。

また、その土砂には戦死者の骨が混ざっている土も使われようとしている。

たまたまではあるが、私はこの本を先日の参院選の前日に読んだ。

許してはならないこと、あきらめてはいけないことが、あまりに多すぎる。

きちんと知って声をあげなければ。

この書籍はバトンだ。
著者が、この本を世に放った時点でリレーは始まっている。

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